反原発運動が盛り上がりを見せている。以前にも表明したとおり、僕は原子力発電を完全に止めるべきだと思っている。そのために「TohokuBlogs.com」を立ち上げた。しかし、最近はあまり反原発の活動をしていない。なぜかというと、次のことを考えるべきだなと思うから。反原発はこのまま行ってきちんと原発が稼働停止するかどうか微妙だ。なぜ微妙なのかを考え、その理由を可能であれば取り除きたいと思っている。いきなり書くと不思議に思われるかもしれないが、原発完全停止の歯止めになっている問題のひとつは、いじめ問題なのではないかと思う。なぜかを書いていこう。
大津市のいじめ
今朝のニュース番組を見ていてふと思ったのは「日本の精神的土壌はいじめなのか?」ということだ。そのきっかけはもちろん大津市のいじめ問題だ。そのニュース番組ではこんなことを言っていた。
教育の現場ではいじめをした生徒を守ろうとする。なぜならば、教師側の問題を露呈したくないから。
とてもわかりやすい。そして、これなら大津市の教師たちを糾弾できるだろう。しかし、それだけでいいのだろうか? 何かここにも割り切れないものを感じる。なにが割り切れないのか。もしかしたら、立場さえ違えば、自分がその当事者になってしまうのではないかという疑念だ。
電力会社社員の心配
反原発の運動を見ていると、つい特攻隊のことを思い出す。僕はかつて辺見じゅん先生のお手伝いをしていたことがある。そのときに何名かの特攻隊の生き残りの人たちにインタビューをさせてもらう機会を得た。その人たちは特攻隊として出陣し、様々な理由で生きて帰る。そのときに何が起きたのか。
出陣するときはみんながんばれと言われて戦地に赴く。日本が負けたら大変だ。絶対勝たなければならない。僕がこの時代に言う「命がけ」とは比べものにならないほど重い「命がけ」で出陣していった。そして、敗戦を迎える。
戦地から帰ってくると何を言われたかというと「お前らが戦争なんか始めたからこんなことになるんだ」という罵声である。確かに敗戦し、日本は窮乏し、みんな飲まず食わずでがんばるしかない状況に置かれた。そのうっぷんを晴らす先はそこにしかなかったのだろう。そして、日本人みんながそんな態度を取ったかというと、そんなことはないだろう。しかし、生き残って帰ってきた人の印象に深く残ったのは、そのような心ない罵声だった。そのことと、いまの状況がリンクする。
このまま行って、もし電力会社が解体されたら、そこで働いていた人たちはどうなるのか? それを考えると、いま電力会社で働いている人たちはいても立ってもいられないだろう。あのデモのパワーを見れば、ただではすまないことになってしまうかもと思っても不思議ではない。逆に言えば、その恐怖を利用して電力会社関係は一致団結しているのではないだろうか。
いじめ問題をこの時期に強調することで、電力会社の社員はきっと恐れるだろう。その恐怖が、外部の人間には普通のことと思われる「原発をやめる」という決断を必死で回避させようとする行動につながる。
311以前、「原発はやめるべきだ」と言う人は珍しいひとだった。あまり頑なに主張していると「変な人」と思われるような状態だった。僕も「原発はいいものではない。しかし、技術職の人たちがあれほど安全だというなら信じてみようか」というくらいに思っていた。ところが311が起きてしまった。だから、いままで原子力発電を牽引してきた人たちのことをあまり強く糾弾するつもりはないし、そんな立場でもない。311以前は、なんとかして安全でクリーンなエネルギーをと、本気で信じていたのだから。だからこそ、いまでは原発は反対だ。何万年も維持しなければならない廃棄物を50年も維持できなかったのだから。しかし、そのことと、いま起きていることとは区別しなければならない。かつての特攻隊に「お前らのせいだ」と言ったような、心ないおこないをしたくはない。
電力会社にいる人たちはどんなひとたちだろう? きっと安定した収入を得て、家族と幸せに暮らしたいと思っているひとがほとんどだろう。その人たちの生活の基盤が失われるかもしれないのだ。家を買ってローンを組んだ人が数10%収入が減ったらどうなるか、容易に想像がつく。いま多くの人は「電力会社社員は責任を取って減給しろ」と言っている。しかし、原発が悪いものだと意識のなかったひとが急にそんなこと言われたら困るだけだ。電力会社の社員の多くは「安定した電力を供給する」ことだけに腐心してきた人たちなのだから。
こうやって説明されれば「電力会社の社員の減給は考えてやるべきだな」とほとんどの日本人が言うだろう。そして「不当に利益を受けている会社や、責任を取る立場にある人、原発を推進させることで利益を得ていた人たちの利益だけを減らせばいい」ことに同意してもらえるだろう。
そして一方で、社会を誤った方向に導いたひとが誰で、その原因は何かもはっきりさせなければならない。原発を導入した当時のことを知るひとはほとんど故人となってしまったが、そのときに関わったひとの証言が多く集められるべきである。そのことなしに、原発問題は本質的終末を迎えることはない。しかし、ここに分け入る勇気のある人がジャーナリストがどれだけいるだろうか? 僕は正直言って腰が引ける。怖くてできない。でも、その怖さを越えていく必要がある。
いじめの背景
さて、いじめの話に戻る。いじめはその存在を隠さなければならないという状況に起きてくる。大津市では教育委員会のモデル地区としていじめをなくそうとしていたそうだ。そんなところで実際にはいじめが起きていたら、それは大きなスキャンダルになる。だからこそそこにいた教師は隠そうとした。そしていまもそうしている。なぜそんなことをしなければならないのか? 「それはその教師が駄目だから」というのは簡単だ。だけど、実際にはその教師の問題なのではなく、日本という場の問題なのではないか? みんなが右と言っているとき、ひとりだけ左とは言えない雰囲気があるのではないか? もしそれがあるのなら、それをどのようにして取り除くのか、多くの人が話し合わなければならない。ひとりやふたりがわかっても場の変質は起こらない。
僕は、まだ日本がそれほどひどい場になっているとは思わないし、思いたくもない。思いたくないという偏向的志向がこう言わせるのかも知れないが、日本は震災の時、みんな並んでものを買うほど冷静で統制の取れた良心的なひとの多い国だ。にも関わらずいじめが起こるその根底には、深い話をする時間がないという、効率化一辺倒の問題があると思う。なんでもかんでも効率を上げるために、本当はそこで何が起きているのか、深い話ができない。日本人に必要なのは、この時間をかけた深い話なのだと思う。
電力会社のひとも、物怖じせず、自分にとっての本当のことが言えるべきだし、その場を与えられるべきだ。それについては多くの人が同意してくれるだろう。そして、メディアが流しがちな、簡単な話だけに耳を傾けるのではなく、わかりにくいかもしれないが、複雑に絡んでいる現実が何かを聞き取る余裕を、一般市民は作るべきだし、そのような社会を育てるために政治家は尽力するべきだ。
簡単で耳触りのいい話は、その裏側に何があるのか、きちんと汲み取るように準備したい。