ジム・ホールと共演した『アランフェス協奏曲』をときどき聞いたが、チェット・ベイカーのことはほとんど知らなかった。ファンになったのはヒロ川島と出会ってから。川島さんはチェットと1986年の初来日の際に知り合いとなり、不思議な縁を結ぶ。
昨日、5月13日はチェットの命日。
毎年この日にはヒロ川島が「CHET BAKER MEMORIAL NIGHT」をおこなう。没後30年という節目にその音を聞きに行った。川島さんはただチェットのファンだからとMEMORIAL NIGHTをおこなっている訳ではない。
彼はチェットの楽器を譲り受けたのだ。
はじめてそのことを聞いたときは「なにそれ?」と思った。その話を聞いたとき、彼はまだ会社員だった。月に一度、練習のためにライブを開くという贅沢をしていた。収入を得ていたという点ではプロだが、音楽だけで生計がたっていた訳ではないのでセミプロという状態だった。その彼になぜチェット・ベイカーが本人の使っていた楽器を上げたのか? いろいろと話を聞いてやっと合点した。
話は飛ぶが、昔々空海が唐に行った。当時の空海はまだ無名で、なぜ唐に行けたのかすら定かではない。恵果和尚を訪ねると、空海の資質を見抜き即座に奥義伝授を始め、半年ですべてを伝え、恵果は入滅する。もちろん空海はその後日本に帰り大活躍するのだが、チェットと川島さんの関係に似たものを感じる。
チェットは1986年に川島さんと出会い、1988年5月13日に亡くなる。
僕と川島さんは1996年に出会った。ある日、僕の車の助手席に川島さんを乗せ走っていると、チェットと川島さんの不思議な話を聞かせてくれた。不思議な話はたくさんあるのだが、そのひとつは確かこんなものだった。
チェットが亡くなりしばらくすると、川島さんの友人から「チェットのいい曲だけ集めてカセットに録音してくれ」と頼まれた。川島さんは録音されてないカセットを探すと、ラベルに何も書かれていない一本のカセットを見つける。よく見ると少しだけテープが進んでいたので何か入っているのかな?と思い、そのカセットをかけてみる。するとレコーダーから聞こえてきたのは、英会話の練習テープのようだった。
「Repeat after me.
Good by Mr.Baker.
Good by Mr.Baker.
Good by Mr.Baker.」
川島さんはそんな英会話教材を聞いたこともなかったし、なぜそのように録音されているのかもわからなかった。チェット・ベイカーの曲を録音をしようと探したテープから、「さよならベイカーさん」と流れてきたらびっくりだ。そんな不思議な話をいくつか聞かされ、「本当かよ」と思ったし、それを口にすると「本当なんだよ」と川島さんは叫んだ。
そのとき、車内でかけていたラジオの曲が変わった。すると川島さんが「あーっ!」と叫ぶ。
「どうしたの?」と聞くと、「この曲、ポップなんだけど、間奏の部分をチェットが吹いているんだ」
しばらくして、チェットの吹くアドリブが鳴り始めた。そんなことがあったので、今ではふたりの不思議な縁を疑うことはない。
何しろその後の川島さんの活躍はチェットから楽器を託された意味を体現している。
チェットの生誕70年には「JAZZ-Love Notes」という番組をテレビ東京で2クールにわたりOn Airする。ちなみにLOVE NOTESとはチェットが生前作りたいと言っていたバンド名。それを川島さんは1989年に立ち上げ、いまも活動を続けている。彼は30回「CHET BAKER MEMORIAL NIGHT」を続けてきた。
川島さんは普段別の楽器を使っている。1年に一度「CHET BAKER MEMORIAL NIGHT」にチェットの楽器で演奏する。
素晴らしい供養だ。
「日刊 気持ちいいもの」から転載。一部加筆。