2/24におこなわれた武甲山未来フォーラムに参加してきました。
内山節さんのお話しが素敵だったので、ここに要約を載せておきます。
いつものとおりメモ書きに頼っているので、お話しを完璧には再現できませんが、概要ということでご容赦を。
秩父の自然とローカリズム
50年近く前、群馬県の上野村に行きました。当時の十国峠は細くて狭くて大変な道でした。僕の車にはトランクにスコップを積んでいたから良かったですが、あれがなかったらきっと目的地には行けなかったでしょう。それ以来上野村が好きになり、そこに住むようになりました。東京との往復をするのに池袋から西武線で秩父まで来て、秩父に駐車場を借りてここから上野村までよく走っていったものです。
僕は哲学者ということですから、西洋哲学を研究してきたんですけど、西洋哲学は19世紀頃から限界を感じ始めて、東洋哲学を研究するようになるんです。それで20世紀には東洋哲学の内容は当たり前のようにみんな知っているんです。特に仏教。西洋哲学を学んでいるのでフランスにもよく行きました。フランスに行くと世阿弥の本を人文系の人たちは当然のように読んでいるんですね。日本で世阿弥を読んでいる人って、この中にもいらっしゃるでしょうけど、あまりたくさんの人は読んでいないと思います。そのくらい日本の考え方やものの見方がヨーロッパでは定着している。ところが日本ではどうか? 日本の伝統的な発想とは何かわかります?
日本では明治以降、ヨーロッパに追従するためにいろんなことやりましたけど、もうそれは時代遅れですね。何しろヨーロッパの人がそういう考え方を手放して、東洋や日本の考え方を学んでいます。人の気持ちや考え方が変わってきているのです。
かつてのヨーロッパの思想は、社会を人間が作ったものと捉えていました。だから人間が作り替えることができる。一方で日本が考えた社会というのは、人間と自然が織りなして作って行ったものと考えます。しかも、人間は生きている人間だけではない。死んだ人間も社会を作っていると考えたのです。つまり社会は「生きている人間」と「ご先祖様」と「自然」が作ったものだと考えたのです。だから、家を少しでも空けるときには仏壇に挨拶していったりしました。しかも昔は、自分のうちのご先祖様だけではなく、その地域のご先祖様のことを考えていた。うちの先祖という考え方が現れるのは江戸時代になってから。その江戸時代でもうちのご先祖様よりは地域のご先祖様の方が優先でした。それが明治時代になって本当に「うちのご先祖様」だけになった。柳田国男によれば先祖に個人名がついたのは明治以降だと言います。
さて、こんにちの武甲山は見上げると残念と言う気持ちになります。50年前、上野村に通っていた頃とはかなり違う形になりました。でも、いまでも武甲山はある力を持っていると思います。そうでなければ今日のフォーラムにもこんなに人が集まらないでしょう。では、あの武甲山をかつてのように守り神に近い状態に現わせるためにはどうすればいいでしょう? 山にはそれぞれ力があって、その力が特に強い山を霊山と呼びます。武甲山はきっと霊山でしょう。日本の人たちは武甲山がただの景色の中にある山ではなく、そこからある力をいただいている。その力とともに暮らしている。姿形を取り戻すとともに、武甲山をそのような力のある山として取り戻すためにはどうしたらいいのか。何を回復していくべきなのか。
このあたりには荒川が流れています。かつて江戸の頃、浅草寺では日照りのときに雨乞いをしました。そのとき供えられた水は必ず秩父の水だったそうです。浅草寺のそばに隅田川が流れていますけど、それは荒川の支流なんですね。つまり秩父の水が浅草寺まで回っていったことを江戸の人たちは知っていて、だからその水を雨乞いに使ったんです。秩父の水はこのあたりに住んでいる人だけのものではなく、荒川だけのものでもなく、武甲山だけのものでもない。
日本の社会は生きている人、ご先祖様、そして自然によってできていると言いましたけど、実は自然という言葉は江戸時代にはほとんどありませんでした。明治になって「nature」の訳語として「自然」という言葉が定着しましたけど、ずっと昔は「自然」と書いて「じねん」と読んでいました。鎌倉時代あたりから「自然」と書いて「しぜん」と読むようになりましたけど、その頃は意味が違って、「突然」という意味でした。それが明治になって今の「自然」になったのです。
明治に入ってできた翻訳語には「宗教」「信仰」という言葉もあり、つまりは明治以前には「宗教」も「信仰」もそういう概念がなかったと言っていい。もともとの日本の宗教は日々の生活に溶け込んだもので、いまのような「宗教」ではなかった。
たとえば「いただきます」「ごちそうさま」は、命をいただくという感謝があった。それが食事の作法で、日々の生活に溶け込んだものだった。それはいま僕たちが考える宗教ではないかもしれないが、当たり前にあったことで、それが社会を大切にする考えを日本人の心に植え付けた「宗教」や「信仰」のようなものだった。ほかにも大きな木に出会うといまでも思わず手をあわせたりしますよね。こういう日々の生活に当たり前にあったものが明治になって「宗教」とか「信仰」という名前が付いて特別なものになった。
ヨーロッパの考え方は霊というものが存在してそれが人や社会を守っていると考えた。ところが日本ではそのようには考えなかった。どう考えたかというと、かつて生きていた死者がいる。その人とどのような関係を取り結ぶのかが重視された。神様を大切にする人には神様との関係ができて神様がいるし、神様なんかいないという人には神様はいない。世の中に男と女はたくさんいるが、夫や妻は一人だけ。それはその人と関係を結んだから。それと同じ。
自然ともどんな関係を結ぶのかが大切。自然の中に神を感じればそのような世界が現れる。そのような関係は人間の数だけあり、つまり自然はひとつだけのものではない。関係するごとに現れてくるもの。だから神や仏がいるかどうかは関係なく、自分がどのように関係を作るのか。関係を結ぶ人に神や仏が現れてくる。
わたし自身は武甲山が残念だと思う。しかし破壊してけしからんと思うのではなく、今の視点からけしからんと思うのではなく、武甲山とどういう関係を取り結ぶのか。それが大切だと思う。
僕は昭和25年生まれです。あと10年か15年早く生まれていたら、きっと軍国少年になっていたでしょう。実際には終戦後に生まれ、平和が大事だと教えられ、その通りだと思ってきた。だけどきっと10〜15年早く生まれていたら軍国少年だっただろうと思う。それと同じで今の時点で武甲山の採掘を責めてもそれはあまり意味はなくて、ただそういう時代だったということだと思うんです。その時代には武甲山や秩父と人々との関係を壊して経済発展に走った。自然がありがたいことというふうに生きていた人たちの関係を壊して儲けていった。そういう時代だったのだと思うのです。
だから、武甲山の復活は、山肌や緑の復活だけではなく、秩父の山々と人との関係、そして水の関係、それは雨乞いのとき浅草寺からここまで水を取りに来ていたのです。そういう人々との関係を修復し、関係性を作りなおす。そういうことだと思うのです。明治以降そういう関係を壊してきてしまった。そこに思いを馳せるのです。
荒川は江戸へ流れていく。荒川は入間川と合流し、隅田川など細かく分かれて氾濫を起こす。かつては利根川と荒川はつながっていた。それを分離することで氾濫を抑えた。しかし水道ができると荒川水系と利根川水系は合流するようになる。なぜかつて分けたのか。なぜいま一緒にするのか。ここだけしか見ていないと水の利用をどうするのかという話しだけにしか見えない。それは山の形が変わったのがセメントの関係だけでしか見えないのと同じ。源流の森、その下流、それぞれの川、そして注ぎ込む海との関係も全体的に見ない限り、その循環する世界は見えてこない。それを見るためには自然の霊力として感じる全体性を学びなおす必要がある。
明治以降作ってきた世界が壁に打ち当たった。僕たちは自然との関係の中で生きている。この世界がどんな関係の中でできていたのかわからなくなるような世界を作り、そういう価値観を育ててしまった。これからは武甲山が大切と思える関係性を作り、その関係性を育てることのできる価値観とは何かを考えていかなければならない。