複雑性と愛について考える

僕たちにはいま、いろんなことを考えるための時間を与えられた。何をどう考えるべきか? あまりにも考えるべきことは多いので、たった数週間で答えは出せないかもしれない。でも、何事にもトライは大切。

長い話になるけど、この話は最後には「愛とは何か?」につながります。愛について深く考えるための「ある側面」について書いていきます。興味のある方はお付き合いください。

複雑性が大切な時代だと言われる。なぜ複雑性が大切なのか? 前提がたくさん必要なのは知っているが、それを言い出すとなが〜い文章になってしまうからかなりはしょる。わからない人は質問してください。なんとなくわかった人はそれでよしとしてください。理論的に科学的に正しいことを求めていくと、きっと訳が分からなくなります。なぜそうなってしまうのかについては、またいつか説明します。

複雑性が大切なのは「僕たちがひとりひとりみんな違うから」。もし複雑性が大切だと気づけないと、僕たちは「ひとりひとり違う」ことを容認できないということになる。

一方で、他人をすべて容認するというのは、いまの状況では難しいことです。なぜなら、今のパラダイムでは「複雑性が大切」というパラダイムになりきっておらず、「みんな一緒がいい」というパラダイムで、自分が他人とは違うことが露呈するから。

かつて世界が工業化された時代がありました。僕が生まれたのはそんな時代の終わり頃です。みんなが同じことを学びました。小学生から中学生まで。高校生になるときに「さらに勉強するか否か」の選択肢を与えられ、多くの人は「勉強する」を選び、高校生の後半で進路によって「理系」か「文系」に分かれ、大学受験で「どこで学ぶか」の選択肢を与えられました。そうやって少しずつ細分化されていきましたけど、本当の細分化は就職のときにおこなわれます。

「どういう仕事をするのか?」

僕が就職した時代はここで個人の勉強は終わりだと思われていました。一度就職すれば、その会社で、その社会で、「まじめに働けばそれでいい」とされていたのです。しかし、ちょうど僕が就職した頃から、時代の流れはとても早くなりました。

デジタルという様式が生まれたからです。

僕が大学生の頃にCDが発売されました。当時はまだ音質がいまより悪かったので、「なんでこんなことするんだろう?」としか思えなかった。だけど、それが一般社会にデジタルが登場するきっかけでした。それ以降、いろんなことがデジタルになっていく。その結果がインターネットに集約されます。もしデジタルという様式がなければ、インターネットはこのようには普及しなかったでしょう。その結果、私たちはいろんな情報を発信したり得たりすることができるようになりました。このおかげで僕たちは工業化社会から少しずつ脱したのです。

工業化時代は画一化が大切なことでした。同じものをたくさん作る。これが工業化された社会です。そこから僕たちは少しずつ脱した結果、「複雑性が大切である」ことにたどり着いたのです。

工業化の時代には「みんなと一緒」が大切でした。画一化が大切だったから。日本は日本という塊で、その要素は区画分けはあるものの、ほぼみんな一緒がいいと思われていました。いまはそれを脱し、個性化を手に入れつつあります。しかし、完全にそれを手に入れた訳ではない。いまはまだ「みんな一緒がいい」という価値観と、「みんなが別々がいい」という価値観が混在しています。「みんなが別々でいい」と本当に言える人は、実は「みんなが一緒がいい」という価値観を飲み込むはずです。「みんなが別々でいい」のであれば、「みんな一緒がいい」という価値観の人もそれでいいと思えるはずですから。しかし、ひとつ問題があります。

多数決という考え方があります。もうピンと来た方が多いと思います。多数決だと「みんなが別々でいい」という人と「みんなが一緒がいい」という人とが共存できないのです。何か決めるとき、多数決でやるとするなら「みんなが一緒がいい」と考える人たちが必ず勝ってしまいます。

複雑性を大切にするなら議論が大切で、多数決でやっていると、古いパラダイムに沿ったことしかできません。いまはここで苦労しているのです。いまの政治を思えば、はっきりとそれがわかりますね。

だから、個性化の時代にはなりきれない。複雑性はいいといいながら、そこにはたどり着けない。政治で言えば自民党が「よし」としたことしか決めることができない。

たとえば、望月衣塑子さん。記者クラブの中で独特の質問をすると言われています。そう言われてしまうのは、工業化時代の古い価値観で政治やメディアが運用されているからです。政治家にとって得票数が最大関心事だから、数でなんでも決めようとする。ナンセンスだなぁって思いません? ここまで僕の文章を読んでくれた多くの人がそう思っていると思います。なぜこのようなことが起きるのか?

僕たちがまだ完全に複雑性が大切だというパラダイムを生きてないからです。

かつてこんな話を聞きました。ある難民キャンプで、いろんな民族・部族の人が集まるので、トラブルばかりが起きました。価値観があまりにも違うので話しても意味が少しずつズレるのです。同じ言葉を使ったとしてもニュアンスが違ったのです。そこで難民キャンプがうまく運営されるために何をしたか。何をしたと思います? それぞれの部族の人たちに「結婚式はどうおこなうか?」を話してもらったそうです。するとそれぞれの部族で結婚に対する見方も、価値観も、式の挙げ方も、なにもかもが全然違うので、それ以降トラブルが減ったそうです。みんなが「部族が違うと考え方が全く違う」ことを知ったからです。

つまり、僕たちは言葉では「複雑性は大切」といいながら、そのパラダイムを生きてないし、「そのパラダイムを生きる」ということがどういうことか、まだ理解もしてないのです。僕たちのパラダイムはいまだに「多数決が大切」なのです。

では、そのパラダイムを脱するためには何が必要なのか? 残念ながらそれは「何かひとつができればいい」という話ではないので、多くの人が試行錯誤していく必要があるでしょう。難民キャンプで多くの人が「部族が違うと考え方が全く違う」ことを知って、そのあとにきっといろんなことがなされたはずです。それと同じように、いろんなことをなしていく必要があるのです。そのときに大切なことのひとつは「相手の話をよく聞く」ことです。

いまの国会では「他人の話を聞く」をないがしろにしています。そのことを僕たちは反面教師として生きるべきでしょう。その結果、きちんと選挙によって「相手の話をよく聞く」議員を選ばなければなりません。もしそれができないと、とんでもない政治が続きます。

愛している人と意見が異なるときどうしますか? 国会の議論を見本にして「無視」したり「隠蔽」したり「ウソ」ついたりしたら、そこには愛はありませんね。愛している人と意見が異なったら、互いに落ち着くまで話し合いますよね。もしそれでも意見が異なっても、「そうか相手はそんなふうに考えるのか」というのがわかったら、何かいい解決はないかとさらにいろいろと考えますよね。それが愛し合う人たちがすることです。もちろん答えが出ればいいのですが、その前に、答えを出すための覚悟のようなところに「愛」があります。

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