SMOKE

打ち合わせが続き、昼食を食べられなかった僕は、表参道の交差点から原宿に向かって歩いていった。

着飾った若者達が意気揚々と歩いている。道の両側にはブランドショップが建ち並び、羽振りのいい人達が買い物に入る。カワイ楽器店には派手なペイントのピアノが飾られていた。道の向こう側に表参道ヒルズを眺め、タグホイヤーのショップを過ぎるとGYREというビルがある。一階にはシャネルとブルガリが入っている豪勢なビルだ。

現代風にライティングされた廊下を突き当たりまで歩き、ガラス張りのエレベーターで4階に上がる。降りて左に歩くと『ほの字』という居酒屋。その先に『SMOKE』がある。ここはかつて紅龍さんに連れてきてもらったお店だ。

入ると右手にカウンターがあり、その上にヒュミドールが置いてある。

「いらっしゃいませ」

カウンターの入口に立っていたウェイトレスが声をかけてくれる。

「ひとりなんだけど」

「お好きな席にどうぞ」

見回すとどの席もテーブルにソファが置かれている。ソファもテーブルもみなまちまちだ。大きなテーブルとゆったりとしたソファーばかりで、一人や二人用の席がなかった。仕方ないので比較的小さなテーブルのある五、六人は座れる場所に落ち着いた。

出されたメニューを見ると飲み物とデザートしかない。

「何か食べるものはありませんか?」

「ランチの時間は終わってしまったんですよ」

「そうか」と頭の中で思った。前回紅龍さんに連れてきてもらったのは確かにランチの時間だった。いまはPM4:30。昼食を抜いていたので僕は腹ぺこだ。デザートだけでは収まらない。「ごめん」と言って店を出ようかとも考えた。

ウェイトレスが笑顔でやってきて「ランチをやってもらえるそうです。今日のスペシャルはチキンのウィーン風ロースト、パスタは白身魚のジェノベーゼソースです」と言った。

「じゃあ、スペシャルで」

ウェイトレスは下がっていった。

この店に来たのは葉巻を吸いたかったからだ。打ち合わせで課題をもらったが、どうまとめていいかわからなかった。カウンターに行き、スリムコロナを買う。「WILLEMII」というシガーだ。買うとウェイトレスが「マッチを切らしているのでライターでもいいですか?」という。「いいですよ」と大学名の入った100円ライターを手渡された。

席に戻りシガーに火を点ける。

レストランの片隅で古着屋さんがバザーをしていた。人が入ってきては何着かの服を見て出て行く。古着屋は青いボーダーのTシャツを着ていた。歩くのが楽しくてしようがない頃の子どもが、手を開いて店内を走り回っている。お母さんは古着に夢中だ。シガーの煙がその子に届かないかちょっと心配した。

お気に入りの緑のノートブックに企画の概要を書く。ふつふつと打ち合わせの時には見えなかった企画の背景が立ちあがってきた。

「なるほど」

そう思って顔を上げると、眼鏡に無精ひげのウェイターがひと皿に盛られたランチを持って立っていた。

「チキンのウィーン風ローストです」

マスタードのようなソースの載ったチキンに野菜が添えられ、脇にライスが盛られていた。

さっそくフォークで食べる。チキンは皮の部分がカリカリで肉が軟らかくとてもうまい。あっというまに平らげた。

食後に飲み物を頼もうとしてウェイトレスを呼んだ。

「ランチドリンクはここにあるものがどれも300円です」

彼女はメニューをゆびさした。

ランチ時間外に料理してもらい、しかもドリンクまでセット価格で頼んでは悪いと思い、アイリッシュコーヒーを頼んだ。

フルートグラスに入ってきたアイリッシュコーヒーはウィスキーが強く苦かった。それがシガーに合う。

会計をして出て行くとき、「ランチ出してくれてありがとう」というと、ウェイトレスはこぼれそうな笑顔を見せてくれた。

SMOKE BAR & GRILL

東京都渋谷区神宮前5-10-1 GYRE4F

03-5468-6449

www.smoke.co.jp

ディジュリドゥ

先日、ひさしぶりにディジュリドゥを吹いた。アボリジニに伝わる不思議な笛だ。

基本的には金管楽器のペダルトーンと同じようにして吹く。しかし、吹く唇の位置がちょっと違う。金管楽器は唇の真ん中で吹くが、ドィジュリドゥは唇の端で吹く。このとき、舌を動かすことで口腔内の空間の大きさを意図的に変えることで、音色を変化させる。ア、イ、ウ、エ、オと発音するとき、口の中と唇の形の関係で音が変わる。同様な変化をディジュでは吹きながら音色に加えるのだ。ホーミーで口の形を変えることで倍音を口腔内に響かせるが、同じことを金管楽器のペダルトーンを出しながらやるようなものだ。

さらにディジュには特徴的な奏法が使われる。循環呼吸だ。はじめて聞いたのは中学生の時。オーボエを吹いている先輩がオーボエに循環呼吸という奏法があり、それで吹くといつまでも吹き続けることができると聞いた。当時はそんなことができるのかと信じられなかったが、ドィジュでは二、三時間訓練すればできるようになる。ブイーと吹きながら頬に空気をため、ほんの一瞬頬から空気を吹き出しているあいだに鼻から息を吸うのだ。コツを覚えればさほど難しくない。

それから、ディジュではブィーとペダルトーンのような音を吹きながら、口の形を変えることで倍音を変え、それによってリズムを刻むことができるが、同時にもうひとつ、声帯を震わすことで、つまり声を出すことでディジュの音に声をかぶせることができる。これはアナログシンセサイザーを知っている人ならわかると思うが、オシレーター(発信装置)がふたつあるようなものだ。ひとつはディジュの固有振動数から生まれるペダルトーン、もうひとつが声で生まれる音。この二つの音が干渉を起こして、不思議な音を発生させる。これでもリズムが刻めるので、ディジュではやろうと思えば三種類のリズムを同時に刻めることになる。

ひとつは、ただ吹くことで生まれるリズム。吹いたり止めたりすればリズムが生まれる。ブッ、ブーブ みたいな音だ。

もうひとつは口腔内を変えることで倍音を変化させて刻むリズム。ビーヨーイヨイヨ みたいな音。

そして三つ目は声を出すことによって刻むリズムだ。これは声の高さによって出てくる音が無限にあるので言葉に表現できない。

うまい人はこの三つがそれぞれ独立して刻まれるので、たった一本のディジュで複雑なリズムが刻める。そしてさらに固い木片を持ち、ディジュ自体を叩くことで、もうひとつ別のリズムを刻むこともできる。

この楽器はもちろん聞いても面白いのだが、一番の醍醐味は演奏することにある。三つのリズムを刻むことは考えてやっていてはなかなかできない。それより自分ができる範囲で適当に楽しむのが良い。正確に三つのリズムを刻もうとすることより、適当に複雑なリズムに雰囲気を近づける方がずっとこの楽器らしい音になる。そして、それを続けることで、奏者は次第にマインドトリップを始めるのだ。

リズムが複雑で、しかも循環呼吸をするので、次第に空気が足りなくなり、クラクラしてくる。さらにいろんな音でリズムを刻むので、考える暇がない。音はすべて感覚で操作するようになる。それらに慣れるとハイになってくるのだ。

だからディジュは一度吹き出すとなかなか止められなくなる。あー疲れたと思う頃には一時間くらい経っていたりする。なかなか素晴らしい変性意識発生装置だ。

無縁社会

三、四日前に近所の本屋で週刊ダイヤモンドを買った。第一特集が「無縁社会 おひとりさまの行く末」だ。これを読んでいて思いだしたことがある。それは親父が死ぬときの看護婦さんの言葉だ。親父が死んだのは1996年。もう14年も前のことだ。そのとき、親父が危篤になり病院に呼ばれて行ったが小康を得た。そこで兄がその日一晩は親父についていると言ってくれたので、僕と母はうちに帰った。確か家に着いたのはすでに深夜だったと思う。メールの返事などして午前三時まで起きていた。すると病院から電話が来て「血圧が急激に落ちているので来てください」と言われ、母さんを起こして車で病院に向かった。

病院に着くと看護婦さんがこんなことを言った。

「いい家族ですね。全員が臨終に立ち合うなんて」

「は?」と思った。「それが普通でしょう」と。

父はまた小康を得たが、その日の朝日が昇る頃に帰らぬ人となった。

あとで思ったのだが、もしあの頃僕がサラリーマンだったら、確かに父の死に目に会えなかったかもしれない。父が死ぬより、自分の会社の仕事を優先させたかもしれない。そう思った。

そんなことを記事を読んで思いだした。

無縁社会になるのはいろんな要素が絡み合っていると思う。しかし、あまり誰も言わないので、ここであえて書くが、そのひとつの理由としてマーケティング的発想が無縁社会を作っているような気がする。マーケティング的発想とは何か。

「人は面倒なことはしない。だから何かを売るためには消費者の煩わしさを排除する」

マーケティング的発想にあまりにも慣れてしまった人は社会生活の中で「煩わしさは避けて当然」と考える。だから「煩わしいことはしない」し、「他人に煩わしい思いもさせない」と思うのではないだろうか。

人間関係を作るというのは面倒なことだ。もちつもたれつと言うが、ビジネスの場面での恩の売り買いまではできても、売り買いが成立するかどうかわからないことについて、面倒をかけたり、面倒を見たりすることはしなくなっているのではないだろうか。僕はそうだし、ほかの人たちもかなりそうなっている気がする。唯一の例外は女房とほんの一握りの友人との関係だ。ここだけは大変な面倒の掛け合いをしている。ところが同じような面倒の掛け合いは、もう兄ともしないし、まして甥や姪にはまったくかけない。それはいいおじさんであることのためであるが、一方で本当に困ったときどうにかしてもらえるような人間関係は作っていないと言うことだ。

いま社会はどんどん便利になっていると思う。その一方で、かつて自然とできていた人間関係を作るための面倒なやりとりもなくしてしまったのではないだろうか。便利になるのが当たり前に思う僕を含む一群の人たちは、便利になるが故に無縁社会の種を知らず知らずに育てているのではないだろうか。

他人に上手に甘えて、迷惑をかけ、迷惑をかけられるような関係を築くのが大切かもしれない。それは自分が駄目な人間であることを受け入れることに近いかも。そのあとで、誰かの駄目さも笑って許してあげられるようになることかも。

ここでもうひとつ思い出したことがある。バリ島の男を買う女性だ。

バリ島のクタ海岸には日本人女性がお金で相手してもらえる男性がたくさんいる。そこで日本人女性が何をするかというと、そんな男たちにお金を払って、彼らを愛人として好きに使うのだ。そういうカップルはクタにいるとすぐにわかる。なぜなら女性がとても不機嫌だからだ。自分が好きに使える男がいたら嬉しくてたまらないのではないかと思うのが普通だろうけど、実際には違う。彼女らは心のどこかで後ろめたいので、常に何かにあたったり怒ったりしている。

便利に使える男は価値がない男と、心のどこかで思っているのだろう。そして、相手の煩わしさをどこかでキャッチして、それがまた自分の機嫌を悪くしているのではないかと思う。面倒をかけられるのは「お金を払っているから」という理由があるからなのだ。そして、そのことにいらついている。

人間は相手のことが好きだったら、お金なんか払わなくても多少のことは許してあげられるものだ。この多少のことの許容範囲が、無縁社会を作りつつある日本ではかなり狭くなってきているのだと思う。

以上、みんな僕の勝手な推測だ。もしかしたら違うかもしれない。でも、僕はそう感じている。