ドーン

平野啓一郎の『ドーン』を読んだ。『ドーン』とは『dawn』のことだ。小説では有人火星探査機の名前になっている。

ここから先は内容の話になるので、これから読もうと思っている人は読まない方がいいかもしれない。

物語の舞台は有人火星探査機のなかとクルーらが帰ってからの話で、SF的な話かなと思っていたが、全然違った。宇宙開発を舞台にしているがそのテーマは「dividual」にある。「dividual」という言葉は平野啓一郎の造語だそうだ。「individual」は「個人」という意味だ。それは「in-(できない)」「divide(分ける)」から「分割できないもの→個人」となっているが、その個人の心の中を「分けられるもの」と考えることが「dividualism(分人主義)」としている。

たとえば、僕が公の場で何かプレゼンテーションするときと、学校で先生として話すときでは、話し方も口調も態度も異なる。そしてそれはあまり意識せずとも自然にそうなるものだ。それを「ふたりの分人(dividual)がいる」ものと仮定し考えるものだ。この言葉は将来ネット上で流行るかもしれない。なぜなら分人(dividual)はとても大切な概念になる気がするからだ。

たとえば僕がこの「水のきらめき」に書く文章も、実は記事によって少しずつ違う。なぜそのようなことが起こるのかというと、内容によって伝えたい相手が違ったり、その話題を書くときの僕の心持ちが違ったりするからだ。

1996年頃からホームページを作りいろんなことを発信したが、雑誌に原稿を書くときとなんかちょっと違う感じがした。しかし、それがどう違うのかがよくわからなかった。そんなとき友人からこう言われた。

「ネット上の文章ってスタンスがわからないよなぁ。誰が読むものとして書いたらいいんだろう?」

そう言われてなるほどと思った。読者が想定できないのだ。僕のすごく親しい人が読むかもしれないし、まったくの他人が読むかもしれない。誰に発信すべきかを自分が決めなければならなかったのだ。雑誌の原稿はだいたい想定される読者が決まっている。そのような人に向けて書けばいい。ところがネット上ではいったい誰に書けばいいのかがはっきりしないのだ。

そこで僕は、勝手に決めればいいじゃんと思い、2000年に発行した「BUCHAN通信」に「僕のおしゃべり」という文を載せた。これだ。

つまりネットで書くことを通して僕は分人(もちろんそんな言葉は知らなかったが)に気がついていく。分人を意識的に使い分けて、匿名でBlogをいくつか書いているひとも中にはいるだろう。

『ドーン』では、有人火星探査機という隔離された環境で2年半過ごす。そのときに人は普段使っていた分人を封じられてしまう。いつも自分の同じ面を仲間に見せ続けることになる。そのストレスが問題になっていく。

たとえば、会社などで見せる顔と、家族の間で見せる顔は違ったりする。その違いがリフレッシュを与えてくれることがある。偉い上司と酒を飲むときに気まずいのは、普段酒を飲んでいるモードになっていいものか、上司の前で維持し続けているモードをそのまま続けるべきか、判断に迷うからだ。分人の概念が広まったら上司に向かって「お酒を飲むときの分人を出してもいいですか?」と聞くと、いいのかもしれない。(笑)

しかし、どうだろう、僕は同じ人の前でもいろいろな分人を出すことが多いし、そうあるべきだと思う。人は虹のようにいろんな表現をすべきではないだろうか。そのような示唆を丁寧に与える上で、分人という概念は便利だ。

たとえば会社で、仕事に打ち込んでいるときと、リラックスしたときではもちろん口調が変わる。そういう変化がある自分をまわりの人に受け入れてもらえることがいいことだと思う。そう考えると、有人火星探査機の中でも、各クルーは互いの分人を認め合える関係を築くべきだったといえる。実際に宇宙空間に出れば、人にもよるかもしれないが、自然とそうなるんじゃないかなと感じる。しかし、なかにはシチュエーションによってひとつの分人しか出せない人というのも確かにいるので、これからの宇宙開発には必要な概念なのだろう。

『ドーン』にはほかにもたくさんの新しい概念が登場して、とても面白かった。すでにappleがコンピューターにある写真から顔認識して名前で検索できるようにしているが、『ドーン』の未来社会では世界中の監視カメラでそれができるようになり、誰がいつどこにいるかがネット上で検索できるようになっている。検索されたくない人がどうするかがおかしかった。

不可知への冒険

先日来使っているtwitterに田口ランディさんが書き込んだ。

角川学芸出版ウェブマガジンでの連載開始http://bit.ly/D3QED  つなぶちさん、ぜひ読んで!「あーっあの時か?」と思う箇所がいくつもあるはず。

読んでみると確かにいくつも思い出の話しが載っている。どの話しも、自分が体験したことでなければにわかには信じられないような話しだ。

僕が不思議な体験をし始めたのはいつからだろうと思い出してみる。はっきりと言えるのは中学一年の時だった。それから何度か?と思う体験をしている。そういう話しは自分でも理解できないのでしばらくすると忘れる。だけど、何かのきっかけで思い出してしまう。そしてどうしても短絡的な答えを作りたくなる。理解できないでいることが苦しいから。わかった気になるのが楽なのだ。不思議な体験をしたらそれが霊の仕業だというのも簡単な答えだし、科学的に説明するとこうなるというのも簡単な答えだ。そして実際のところは、説明しきれないような深遠な何かがあるのではないかと思う。しかし、この「深遠な何か」と断定するのも簡単な答えの一つだ。

だいたい僕たちはなぜ生きているのかすら知らない。どんなに医学が発達しても、なぜ生命が生まれるのか、なぜ生命というものが形作られたのか、答えを知らない。「そういうもの」という前提に立って考えるよりほかに仕方ない。そうであるなら、目の前に現れる不思議な出来事も、ただ「そういうもの」と受け入れるしか仕方ないはず。いまはまだ多くの人が科学的でないことは「そういうもの」とは考えない。理屈に合わないと現実を見ないのだ。本当は自然や宇宙が先にあって、それに合わせて理屈を作っているのに、精巧な理屈ができると、それに合わない現実は排除されていく。このあたりのことを森達也さんは「スプーン」という本でうまく書いていた。超能力者と付き合ううちに生まれてくる葛藤。その葛藤に森さんはじっと付き合っている。

僕がバリ島に10年ほど通ったのも、何か説明できないものがあったからだ。その説明できないものを理屈で割り切ると、いかにもわかった気になれる。しかし、それはあくまでその気になれるだけだ。にも関わらず僕は、それを理屈で説明したいと思う。ようは馬鹿だと言うことだ。しかし、人間は馬鹿でないとならないときがあるんだなと思うようになった。馬鹿が世界を動かすんだと思う。理屈だけではがんじがらめになって動けなくなる。理屈で編まれた体系を突き破る行動が大切なのだと思う。

ウェブマガジンに登場する「青龍」の話しも僕は同席していた。そしてそのあと確かにランディさんはものすごい勢いでデビューする。本当にびっくりした。

ランディさんのスタンスは、どんなにわからないことでも、不条理なことでも、観察することだ。「コンセント」ではお兄さんの死をじっと観察した。そして観察している本人の心も観察していた。最近作「パピヨン」でもお父様とキューブラー・ロスの死をじっと観察した。わからないことについての観察は能力がいる。ランディさんはそういう、わからないことを観察する能力に長けている。じたばたするし、泣き言も言うが、その部分が読者を救ってくれる。もしその部分がなかったら、読者は書かれている内容を直視できないだろう。ランディさんのわからないことを観察し、それを読者に伝える能力のすぐれた点は、実はそのじたばたや泣き言にあると僕は思う。

ランディさんはこれから「不可知への冒険」でどんな物語を紡ぐのだろう。理屈で編まれた体系を突き破るような作品を期待している。

忘れられない夢の話

先日なんとも不思議な夢を見た。

アフリカと思える荒涼とした大地に立っていた。草がおおい茂っているわけではない。大地と同じく黄色く枯れかけたような草が少々生えていた。木もあまりない。葉を落としたような枯れかけの木が何本か見える程度。そんな大地に一本の道が通っている。その道は土が踏みしめられただけのもので、舗装はされてない。

道の左側にはたくさんの動植物が集まってきた。植物までもが移動するのだ。見たことのあるようなものもいれば、見たこともない空想の産物としか思えない動植物もいる。それが道の右手をじっと注意深く見ていた。

しばらくすると動植物が注意深く見ていた方向遠くから、何かが迫ってくる。それは空気の層のようなものだった。

それから逃げようとして走ったが無駄だった。空気の層が通り過ぎると、まわりの色彩が濃くなった。動植物がみんな元気になった。枯れかけの草も緑になった。なぜか自分はうれしくなった。

夢はたいてい目が覚めると忘れる。覚えていても半日程度だ。ところがこの夢はなかなか僕の頭から離れない。