1Q84

仕事帰りにふらっと近所の小さい本屋に寄ったら、村上春樹の新刊「1Q84」があったので買った。アマゾンで1万数千部という記録的な予約が入ったそうだ。予約した人はきっと手に入れるのにしばらく時間がかかるだろう。

帰ってちょっとだけ読んだのだが、面白くて止まらなくなった。これはやばい、仕事ができなくなる。

まだはじめの部分しか読んでないのだが、いくつかの「ほう」と思わされる部分があった。

「1Q84」にはヤナーチェクの「シンフォニエッタ」が登場する。「ヤナーチェック」と書かれているが、一般的には「ヤナーチェク」だ。去年鑑賞したオペラ「マクロプロス家の事」がヤナーチェクの作品だった。そのオペラではじめてヤナーチェクの作品を耳にした。「シンフォニエッタ」は聞いたことがなかったので、さっそくiTuneStoreで探して購入した。(Dvorák: Symphony No. 8 & Janácek: Sinfonietta Kurt Masur & New York Philharmonic)アマゾンで予約だけで1万数千だから、あっという間に数十万部は出るだろう。その1%の人が「シンフォニエッタ」を聞こうとしても数千の数になる。普段はあまりたくさん売れると思われない「シンフォニエッタ」のCDが、きっとこの数ヶ月で飛ぶように売れるだろう。

「マクロプロス家の事」はいろいろと音楽に凝った演出がされていたが、歌手が歌い出すと、その台詞と融合するように作曲されたため、とても自然に聞こえた。その結果、歌の中にはあまり特徴的なメロディーがなかった。昨日たまたま読んだ開高健の文章に「(モダニズムとは)1.最高の材質。2.デサインは極端なまでにシンプル。3.機能を完全に果たす」とあったが、まさにそんな感じだった。

「シンフォニエッタ」も一度聞いただけではしばらくすると忘れそうなメロディーだ。すんなりとは入ってくるが、とらえどころがない。村上春樹の小説に似ている。読んでいるときは夢中に読むのだが、あとで誰かに物語を話そうとするととらえどころがない。細部の連関が面白いので、全体を要約すると途端に精彩が失われる。たとえばドボルザークのメロディーを口ずさむと、それだけで魅力があるが、ヤナーチェクのメロディーを口ずさんでも、きっとはじめて聞いた人は「なにそれ?」と思うだろう。繊細にからみつくすべての音があってはじめてその魅力が現れる。

あともうひとつ「ほう」と思ったのは、チェーホフの「サハリン島」の引用があったことだ。村上春樹はなぜこの本を引用する気になったのだろう? 早く先を読みたい。僕の親父が樺太出身なので、親父が読んで赤線の引いてあるチェーホフ全集13巻「シベリアの旅・サハリン島」が机のすぐ脇に置いてある。いつか読もうと思っていたのだが、おかげでそのいつかは数日後となりそうだ。

武器輸出三原則の緩和

防衛に関してはまったくの素人ですが、このニュースはとても気になる。

「政府・与党、武器輸出三原則の緩和検討 共同開発・生産を容認」(日経新聞へのリンクがありました)

これに対してメディアは何を発信するのか。

自衛戦力を上げるためには共同開発は仕方ないのかもしれない。しかし、武器を輸出するのはやめた方がいいと思う。共同開発国には提供せざるを得ないというのもわかるが、日本が作ったものが戦争に使われるのは非常に不安だ。しかも、これを容認するとなると言論の自由とのバランスをどう取るのかが、いつか問題になるだろう。政府は秘密を持たなくてはならなくなり、メディアはそれを伝えられなくなり、その範囲は次第に広がっていく。伝えられることと伝えられないこととをどこで線引きするのか、あらかじめ決めずに事実だけが先に走ると、あとで止められなくなるだろう。結果として箝口令が敷かれたような状態になる。

もしこれが通れば現実問題として、諜報機関も必要になってくるだろう。もしないと情報戦で不利な立場に立たされ続けることになる。そんな国が武器を輸出できるのか? 裏の情報がいままでの何倍にもなるんだろうな。そして、このような恐怖感が、いろいろなことを暴走させるのだろう。この先、一般国民にすごくわかりやすい理由ばかり告げられるようになったら注意しなければならない。

これを止めるためには与党を倒すしかない。なぜいま自民・公明に逆風が吹きそうなことを仕掛けるんだろう? 理由を知っている人は教えて欲しい。武器輸出三原則が緩和されることで、確実に景気が上がり、得する人たちがたくさんいるのだろうか? 景気がよくなれば、人を殺す道具を作って輸出してもいいって政府は考えているの?

吃驚

びっくりすることを吃驚(きっきょう)というが、そんな言葉はほとんど聞いたことがなかった。ところが最近の高校生はPCを使って書く文章にやたらと「吃驚」を使う。なぜかというと「びっくり」と入力して変換させると「吃驚」が出てくるからだ。それこそ「吃驚」!

広辞苑の第五版には「びっくり」で引くと(当て字で「吃驚」「喫驚」と書く)とある。一部の作家が、文章にあるニュアンスを持たせたいときに「吃驚」と書いたのだろう。しかし、その際にはルビがふられたと思う。先日読んだ開高健の「最後の晩餐」にも「吃驚」に「びっくり」とルビがふられて登場していた。そのようなことを知らない高校生や、ひょっとしたら小中学校生が、パソコンを使うことで、たくさんの普通には使わない漢字を、これが正しいとばかりに使うのは如何なものだろう?

奇しくも昨日、漢字検定の前理事長親子が逮捕されたが、文藝春秋の二、三ヶ月前の号に、漢字検定がいかにばかばかしいことであるかが詳細に書かれていた。書いたのは中国文学者の高島俊男氏。出題者が漢字の意味と文脈を理解せずに作った問題がいくつかあるのだそうだ。

たとえば、「列車が”方に”出発するところだった」。この「方」をなんと読むかという問題。漢文では文脈によって「まさに」と読ませることがあるのだそうだ。しかし、口語文に「方」が登場して読める人がどれだけいるのか。ほかにも「諱」という字の読み方を問題にしていた。単独でなんと読むかというならまだしも、前後に添えられた文が間違っていた。「法師、”諱”は玄奘という」。玄奘は法名で諱(いみな)は現代風に言えば本名だから、玄奘が諱であるはずがないのに、そのように読ませていたという。

かつて当用漢字というものがあった。あの頃は漢字の数を減らすためにそれを決めた。ところが常用漢字の時代となり、漢字は使えるものはなんでも使って良いと言うことになった。そこで問題なのは、一度破棄した微妙なニュアンスや意味が再生できないことだ。そのニュアンスや意味を無視して漢字問題が作られる。そこに拍車をかけたのがワープロの存在。ひらがなを打ち込めば漢字がガンガンと吐き出されてくる。その吐き出されてくる漢字を無批判に使ってしまう。今日も学生の文の中に「調度いい」という言葉が出てきた。丁度いい例だ。

ウィキペディアによると、高島俊男氏はやまとことばに漢字を当てるのは適さないと書いているそうだ。やまとことばに漢字が入ってきてしまったために、日本語が正しい発達をしなかったというのが氏の主張だという。漢字について、日本語について、あまり詳しくはないのだが、少しは勉強してみたい。日本人が日本語について考えずに、誰が考えるのか、と思う。

「吃驚」は、使うべきかどうかを考えた上で、覚悟を持って使いたい。普段普通に使うのは「びっくり」がいい。でもきっと、若い人たちは不思議な漢字を使うだろう。それが面白く感じられるのであれば。「面白い」と「正しい」では、いまのところ「面白い」が優勢だ。