『チャロー!インディア』を見て帰ろうとしたが、隣でやっていた『全光榮展』も同じチケットで見られると知り、ついでだからと入っていった。この展示にはまったく裏切られた。まったく期待してなかったし、全光榮という人も知らなかったし、入口のポスターもあまり魅力的には見えなかったので入らずに帰ろうかとも思った。だけど「ここまで来たんだし」と思い、ついで以外のなにものも感じずにフラフラと入ってしまった。
それが間違いだった。完全に魅了された。魂を持っていかれた。
展示室に入る前にこんな文章が置かれていた。
「懐かしさを包み込む」
私にとって人生とは染みるような懐かしさだった。
朝、目が覚めると理由もなく涙が流れたりする。
どうしてなのか、なぜすべてのものが懐かしいのか、私はわからない。
人々は私を背丈が低い東洋人の作家ということで記憶しているが、私の懐かしさの背丈は他人が見えないあの高いところまで伸びているかもしれない。
見えない私の懐かしさは、時には悲しい愛に、時には苦痛を伴う創作活動に、情熱の涙にその姿を変えた。
そのように私を熾烈な人生へと果てしなく駆り立てた懐かしさを恨んだりもした。
しかし、そんな懐かしさがなかったら私の人生は平穏だったかもしれないが空しかっただろう。
この懐かしさがあればこそその懐かしさを忘れるため全力を尽くして作業へ没頭した。しかし忘れることができず、さらなる懐かしさで、私は倒れてもまた起きあがって走った。
私の深い懐かしさと、また誰かの傷と懐かしさを包む心で数千、数万個の三角形を韓紙のポジャギ(風呂敷)で包んで結んできた。
そんな私たちの痛みを癒して上げたいとの想いが私の作品根幹であり 緻密な執拗さ途方もない努力を要求する特有の作業過程を支えてくれた力だった。
数千万回の三角形のポジャギを包む過程でへとへとになっても、それぞれのポジャギへ私の暖かい温もりを盛り込もうとした。
その真心と温もりで誰かの懐かしさを包んであげられることができると信じ、私のAggregationは休むことなく続くことだろう。
—-全光榮
この詩のような紹介文を読んで期待感が生まれた。いったいこの先に何があるのだろうかと。
しかし、最初の展示スペースにはピンと来なかった。布を染めたような抽象的な作品には「こりゃ期待はずれだったかも」としか思えなかった。そして次の展示スペースへと進む。
そこにあったのは森だった。ひとつの壁に森が掛けられていた。
森の絵があったのではない。森のオブジェクトがあったのでもない。森とは似ても似つかぬ形の森があったのだ。
漢字やハングル文字が印刷された紙(韓紙(ハンジ))でさまざまな大きさの三角形を包み込み、その三角形が、何千とも何万とも数え切れないその繰り返しが、あたかも自然物が構築されたかのようにきれいに並べられ、ひしめきあい、共存し、全体で遠近感やデザインを伝えている。
木の葉はひとつひとつとても似ている形をしている。しかし、どれひとつとして同じものがない。同様に、そこを形作っている三角形の断片はどのひとつも同じものがないが、ひとつひとつが同じような要素の無限の繰り返しになっている。そこにあるのは自然と同じフラクタルな繰り返しと、作者のどこから来ているのか計り知れない情念だった。ひとつひとつの果てることのない繰り返しを、作者はまるで自然の造形のように、あるデサインへと練り上げている。この様相はとても写真ではわかり得ない。
森の遠景は緑の固まりだ。近づくにつれ木の形がわかるようになる。そしてもっと近づくことでやっと枝がわかり、もっと近づいて葉がわかる。そこにあった作品も遠くから見ると全体のデザインがあるだけだ。ところが少し近づくとその構成要素が何か特別なものに見えてきて、さらに近づくとやっと三角形がわかり、もっと近づくことでそこに書かれている文字を認識する。
はじめてガムランを聞いたときのような肌寒さを感じた。ひとつ間違えると自分がどこか別の世界に持って行かれそうな、そんな感覚。この感覚を投げかけてくる作品が、そのあとずっと続いていく。
形の組み合わせも妙なるものだが、その三角形の染色と配列、場所毎に異なる大きさと組み合わせ方に、僕はブナの森や杉の森や、イチョウの森、松の森といろんな森を引きずり回される。
平面の作品だけでなく、立体物もあり、全光榮という個人によって生み出された様々な森に、完全に酔ってしまった。
展示の途中で全光榮氏のインタビューがビデオで流されていた。そこで全氏は画家になった頃の苦労について話していた。そのなかでたった一枚手放さないでいる作品について語っていた。ほとんどが赤で覆われたその抽象画は、僕にはあまり名作には見えなかった。バリ島の露天で売られている抽象画に似ているとさえ思ってしまった。この作品のどこにアートで必要とされる深さを見出すべきか、僕には理解できなかった。だけど全氏は行き詰まったとき、その作品を見ることで、初期の苦しかった頃を思い出すのだそうだ。そしてそれを新しい作品の糧とする。きっとあの作品は全氏にとって、創作の世界へ入る鍵なのだろう。あの鍵となる作品から、どのようにしてあの森を思わせる、深い、情念に満ちた、そして全氏が語るように懐かしさをも思わせる、見るものを別の世界に誘うような作品へと飛翔(リープ)するのか、その秘密を知りたい。