魂の教育

飛谷ユミ子先生に誘われて「胎内記憶」の共著者である七田眞先生のドキュメンタリー映画『魂の教育』を見てきた。

七田先生のことを話すとき、時々疑似科学ではないかと言われる。疑似科学自体どのようなものであるか意見が分かれるところだが、確かに七田先生の話には科学的ではない部分がある。それは再現性のないことであったり、科学的な証明ができないことであったり、いろいろである。それを知った上でも七田先生には聞くべき話しがたくさんある。そのひとつは「信じることとはどのようなことか」についてだと僕は考えている。あることを信じることで生まれる心持ちがある。それが人を動かすことがある。それは科学的でなくてもいいような気が僕にはするのだ。

この映画の中で七田先生がかつて大病をしたという下りがある。肺炎だったのだが、医者にあと数ヶ月の命だろうと両親に伝えられる。それを若い七田先生が聞いてしまうのだ。そこで彼は死んでなるものかと起きあがり、無理をして運動する。そのうちに気力で治してしまったという。科学的に考えればあり得ない話しだが、現実としてはあり得るだろう。僕の父も黄疸になり、手術しないと間違いなく死ぬと言われたが、あくまでも手術は拒否して薬と食生活だけで治してしまった。

この映画で七田先生は若い頃に三つの危機が訪れるのではないかと漠然と思っていたことが語られる。ひとつは「死ぬほどの大病をする」。二つめは「貧乏をする」。そして「人に裏切られる」。その通りになることが再現ドラマで伝えられるが、どの体験を通しても七田先生はそれをポジティブに受け止める。

この映画を観たあとでたまたま「チベット密教 心の修行」という本を読んだ。以前チベット僧であるバリー博士の講演会に参加したのだが、そこで話題になっていた「ロジョン(心の訓練)」を和訳したものだ。そのなかに心の修行は五つの力によっておこなえと言う部分がある。

1.決意の力 修行するという決意を固めることのよって得られる。

2.慣れる力 修行を習慣にすることで得られる。

3.善根の力 修行は他人を思いやることによってできることを知ることで得られる。

4.対治の力 自己愛着をなくすことで得られる。

5.回向の力 修行によって得られる功徳をすべての人のために捧げるように祈ることで得られる。

この五つの力を七田先生は三つの危機を体験することで得ていったのだなと思った。まずは三つの危機が訪れてもひるまない自分になると決意する。賃金をきちんと払ってくれない会社に勤めていても、約束通りに働いたという話しが映画で紹介されるが、その体験が慣れる力と善根の力を生み出した。三つの危機を体験する覚悟をすることで自己愛着を手放し、対治の力を得た。そして、それらの体験を通して得られた気づきを幼児教育に生かすことで生きていこうと決めたことで回向の力を得たのである。

七田先生と同じような体験をしても、同じようにすべての人が考えるわけではないだろう。つまり、「大病をし」「貧乏し」「人に裏切られ」ても、必ずしもすべての人が幼児教育を始めるわけではない。人の人生に再現性はないのだ。つまり、人生を科学的に考えても意味がない。一回しかない人生であり、私にしか許されてない人生であり、私にしか与えられていない環境だから尊いのである。それが事実かどうかは科学では証明されない。そうであると信じる者にだけ、それが見える。

伝統模様の危機

クーリエ・ジャポンの12月号p.117に「バリ発祥の伝統模様が海の向こうで盗作扱い」という記事がある。

バリの銀細工職人のニョマン・スアルティ氏がアメリカで知的財産権の侵害で訴えられた。スアルティ氏の作った銀細工をバリからアメリカに持ち帰ったアメリカ人が訴えられ、一緒にスアルティ氏も訴えられてしまった。なぜならアメリカでその銀細工に施された伝統的模様を商標登録した者がいたからだ。記事ではバリ銀細工連盟のニュマン・ムディタ副事務局長が「職人たちは著作権に対する認識が希薄なのです」とコメントを寄せているが、これはどうしたものだろう。もともと伝統的に生み出され、伝えられてきた模様は、誰のモノという概念を持たないものだっただろう。その模様を再現するだけの技術と能力を持つものだけが再現できるモノであった。ところがコピーが簡単にできるようになり、技術も能力もなくてもとにかく最初に登録した者勝ちとなる文化は、バリの伝統的文化とはなじまない。これは日本の伝統工芸の考え方ともきっとなじまなかっただろう。早く登録した者勝ちという文化の伝播は喜ぶべきではないと思う。

バリの人たちもアメリカに対抗して商標登録するようになるだろう。そのことによってバリでのデザインのあり方、それはつまりそのデザインの詳細を復元できる技術を持つ者のみがそのデザインを使うことができるという暗黙の約束が失われるからだ。その結果、恐らく伝統的デザインは次第に失われていくだろう。商標登録できる新しいデザインを使った方が儲けられるから、新人のデザイナーはとにかく新しいデザインを争うようになり、それによって稼ごうとするからだ。

新しいデザインが生まれることは喜ぶべきことだが、伝統的デザインが失われることは悲しむべきことだろう。たとえば日本では古い歌が歌われなくなった。ミュージシャンは印税を稼ぐために新しい歌を次々と作るようになったからだ。僕が幼かった頃はカラオケのような便利なものはなかったが、人は集まると何曲かは一緒に歌える歌があったものだ。ところが、最近では少し世代が違うと一緒に歌える歌を探すのが難しい。

何年か前から浴衣が復活しているが、伝統的な模様を使ったものはほとんど見られない。恐らく着物メーカーもせっせとデザインを商標登録しているのだろう。

すべてのデザインが商標登録されていくと言うことは、ある民族が一緒に分け持つ文化や思い出が失われていくと言うことだ。

バリの人たちが時間をかけて育んできた伝統模様を勝手に盗んで登録するようなことを許さない考え方はできないのだろうか?

日本の伝統模様は、しっかり保護されているのだろうか?

そもそも特許とか商標登録とか、国によって違う物である。国と国が知的財産を取り合っていると言ってもいいだろう。取り合いには情報戦が大切だが、日本にはそのための備えがあるのだろうか? ないと困るし、取り合いの技術ばかりが発達しても困る気がする。武術のように、戈(ほこ)を止める技術は生まれないのだろうか。

ニュー・シネマ・パラダイス

いままでに見た映画の中で一番面白かったのは何かと聞かれてすぐに思い出すのが「ニューシネマパラダイス」だ。この映画は映像にされてないたくさんのことを思わせてくれるのだ。小説において「行間を読む」ことは大切なことだし、素敵なことだ。映画においては「背景を観る」といえるだろう。それは映画の背景であり、それを観ている自分自身の背景を感じることでもある。この映画はたくさんの背景を浮き上がらせてくれる。

「ニュー・シネマ・パラダイス」の概要はこうだ。

功成り名を遂げた映画監督サルヴァトーレ(通称トト)は幼い頃、小さな町の教会で上映される映画を楽しみにしていた。そのときの映写技師は上映するために前の晩にキスシーンを削除する。戦争のためか、教会で上映されるためだったかは忘れてしまった。トトはそのフィルムをくれとせがむが与えてはもらえない。次第に映写技師の手伝いをし、恋をし、成人すると、母の止めるのを聞かずに町を出る。町を出ることを決める前は町に残り、映写技師になろうとするが、父親代わりのようになった映写技師は、トトに町を出て、さまざまな勉強をしろと勧めたのだった。

年月が経ち、トトが有名な監督になったある日、母親からの手紙で、映写技師のおじさんが亡くなったことを知る。トトは映画監督としては成功しているが、いつも恋愛につまずいていた。何十年かぶりで帰る田舎の町。実家に帰ると母親は、成人まで暮らしていた監督の部屋をそのまま残していることに驚く。そして、葬儀へ参列する。青年の頃に離れた町での出来事を噂などで断片的に知る。

映写技師は監督に荷物を残していた。その包みの中身は、昔譲ってもらえなかったキスシーンのフィルムだった。監督は自分のオフィスに帰り、もらったフィルムをつなぎ、上映する。次々と現れるキスシーンに目頭が熱くなる。

この物語の素晴らしいところは、映写技師とトトとのあいだに読み取れる父親と息子の関係。さらに、母親の息子への愛情。それらが物語の行間にあふれ出てくること、物語の背景が画面から語りかけてくることだ。

ひとつのヤマは主人公が列車に乗って町に旅立つところ。行くなと止める母親と、行けと促す映写技師に、誰もが父親と母親の息子に対する葛藤を読み取っただろう。

僕の父は放任主義で、僕がどんなことを勉強しようとしても、どんな会社に入ろうとしても、思うようにしなさいとしか言わなかった。一方母親はいろんなことで心配していた。海外旅行に行こうとしたら、あまりにも心配だと言って行かせてもらえなかったこともある。それが原因で夫婦喧嘩にもなった。だから旅立ちのこのシーンは、僕の両親の葛藤を思い起こさせてくれた。

葬儀のために監督が帰ってきたとき、自分の部屋がそっくりそのまま残されていることに驚くシーンがあるが、あれも僕の母親のやりそうなことだなと思った。

つまり、僕は映画を観ながら、自分自身の人生や両親のことについて追想していたのだ。

映画のラストでは、葬式でもらったフィルムをつなぎ合わせ、監督はただ黙ってその画像を見るのだが、そのときに流れるキスシーンの連続は、見えている画像はキスシーンでありながら、僕たち観客は何十年もの映写技師とトトとの思い出をダフらせて観ることになる。

何度も何度も繰り返されるキスシーン。いろんな俳優が演じるそのキスシーンを観ながら、観客は自分の人生や、トトの人生、両親との関係、実らなかった恋、現在の家族関係などを画像の向こう側に観る。まさに映画を見ながら観客はその「背景を観る」ことになる。映画の「背景」はもちろん、自分の普段は隠されている「背景」をも。