いのちは即興だ

一昨日、一冊の本が届いた。お世話になっている地湧社から、近藤等則氏の新刊「いのちは即興だ」だった。地湧社はなぜこの本を送ってくれたのか、不思議な感じがした。よくぞこの本を送ってくれたと思ったからだ。地湧社からは年間に何冊もの新刊が出るはずだ。そのすべてを送ってもらっているわけではない。年に一冊くらいだ。その一冊がこの本だったとはと驚いた。

近藤さんがかつて資生堂のCMに出ていたときに、強い印象を受けてレコードを買った。アルバムの名前を忘れていたが調べたら思い出した。「コントン」だ。近藤等則の名前を縮めて「コントン」。その音楽自体も混沌だった。それから一年ほどしてJCBのCMに出ているときに冠コンサートの打ち合わせで一度だけお目にかかった。それ以来、ずっと忘れていたが、2001年にダライ・ラマが提唱した「世界聖なる音楽祭」でひさしぶりに近藤さんの名を聞き、お元気なんだなと思った。

かつての近藤さんの音楽は岡本太郎の言葉、「芸術は爆発だ」を音楽で表現しているような前衛的な物だった。最近の音楽はどうなんだろうとYouTubeを探したら、もっと静かになり、その場のバイブレーションと共鳴するような音楽になっていた。「BLOW THE EARTH 近藤等則」で検索すると出てくる。

「いのちは即興だ」はあまりにも面白いので三時間ほどで読んでしまった。

近藤氏は京都大学工学部で学び、卒業して何になるかと考えたとき、一流企業からの誘いを目の前にして、企業に行ってもうまく行かないなと感じ悩んだ。そのとき「自分が死ぬときから今の悩みを見ればいいんだ」と思い、死ぬときに楽しかったと思えるのは音楽だと感じて、ミュージシャンになったそうだ。

ミュージシャンになると決めると「楽しむ側」から「楽しませる側」になる必要がある。ところが人を楽しませるための何物も自分のなかにはないと悟る。ジャズの一流ミュージシャンはみんな一流になるべき物語を持っている。さらに、黒人であるという歴史的な物語を背負うことで、その音楽に深みや流れを生み出している。

近藤氏は自分にはそのようなものがないと悩むが、自分が日本人であるからと、日本の求道者や絵描きの本を読んでいった。そこで見つけたのはアナーキーな生き方だった。そのおかげで黒人のミュージシャンに対するコンプレックスが抜けたと書いている。

僕と徹底的に違うなと思うのは、「いいと感じたらやってしまう」こと。僕はどうもぐずぐず考えてしまう。僕にはどうしても行きたい場所がある。しかし、そこにはなかなか行けない。「時間がない、お金がない……」

僕が会社員だった頃、当時F3000のドライバーだった黒澤琢弥氏がある酒の席でこんな話をしてくれた。

「俺はいまドライバーだけど、昔メカニックをやっていた。よく若いメカニックがどうしたらドライバーになれますかって聞いてくるんだけど、そんなこと聞く前にドライバーになるためのことをやっていきゃあいいんだよ」

当時の僕には響いた。それを今また思い出した。自由に生きていくには無意識を解放しなければならない。自分のいのちに忠実に生きるためには、その場その場の即興に乗るべきだ。そんなことを語りかけてもらった。

CosMos

世の中にはわからないことがたくさんある。それをどうにか理論づけて体系立てていくのが科学だ。科学は世の中を説明するための言葉でありながら、時々逆立ちする。理論で事実を説明しようとすることだ。

もとはと言えば事実を体系立てるために作った理論で、事実すべてを説明しようとする。すると時々説明できない事実が現れる。理論を一生懸命追ってきた人はそのとき理論を優先し、事実を見なくなる。裸の王様を笑った子どものように、事実と理論が違うことを指摘すると、理論を大切にしてきた人たちは「事実が間違いだ」と言い出す。

よくやり玉に挙げられることのひとつが「水の結晶」だ。江本勝さんが「水からの伝言」という本にまとめたこと。水の入った器に言葉を書いたり、言葉の書かれた紙の上に水を置いておくと、言葉の質や内容によって、冷凍してできる結晶の形が異なるという内容だ。これが事実か否か、僕にはよくわからない。普通に考えれば、あり得ない話しだ。だけど実際に実験して確かめたわけでもないのでなんとも言えない。本当なら面白いし、嘘なら馬鹿げたことするなと思うし、ファンタジーなら素敵な想像力を持っているなということだ。今回その実験を見せてもらえることになった。しかも、世界賢人会議「ブダペストクラブ」の創設者、アーヴィン・ラズロ博士と一緒に。 ラズロ博士に会うために最近出版されたばかりの「CosMos」を読んでいった。

その席に招いてくださったのが七田チャイルドアカデミーで知り合った飛谷ユミ子さんだ。おかげさまで水の結晶写真を撮影するブースも見せていただいた。

オフィスでお目にかかった江本さんは、世界中で水の結晶について講演している。すると、海外の研究者のなかには追実験をしてくれる人もいるそうだ。江本氏は言った。

「日本の科学者は何も調べないで嘘だというんだよ。困っちゃってさ」

その場にイタリアから来ていたチトロ博士も同席なさった。チトロ博士はドーパミンの波動を水に転写して、その水でパーキンソン病を治癒したそうで、転写された水を結晶にするとどうなるかを調べに来ていた。そう説明されても僕には意味がわからなかったが、あとで丁寧に説明してもらった。

しばらくしてラズロ博士がいらした。ラズロ博士はシャギ博士というヒーラーを連れてきた。シャギ博士はダウジングを使って人の状態を診る。「誰かからだの調子の悪い人はいませんか?」と言われ、「最近糖尿病だと言われ、薬を飲んでます」と答えたら、診てくれることになった。シャギ博士は僕の背中や頭に手をかざしてダウジングの振れを見る。するとその状態を見て僕の左手の人差し指の先と、小指の付け根に何か印のような物を書いてくれた。ダウジングの振り子の振れ方で印が決まるそうだ。ホワイトボードに右下の写真のように図を描いた。振り子が左右に振れるときは横に一本の線、右回りに平たく振れるときは二本の線、右回りに円のように振れるときは三本の線、縦長に右回りの楕円を描くときには四本の線を描くのだそうだ。

さらに今度は「水を調整する」という。紙に名前の頭文字を書くように言われたので書いた。シャギ博士はしばらくダウジングして、その結果をその紙に書いていった。

「この紙の上に、文字や印が書かれていないコップに水を入れて、3分39秒間置き、その後その水を飲みなさい。毎日就寝前に23日間おこなえば完治します」

その場でその紙の上に水を3分39秒置いて飲んだ。シャギ博士がもう一度ダウジングすると、もう肝臓はよくなり、膵臓もさきほどよりはよくなったという。正直言って「まさか」と思った。そんなことで病気が良くなるはずはないと思った。よくなる理由が何もないと思った。

左の写真は書いてもらった紙。

しかし、理屈がわからなくても現実は受け止めなければならない。これで本当に僕の糖尿病が治れば、理屈はどうであろうと効くと言うことだ。もし江戸時代に生きていた人が、現代のコンピューターを見たらまやかしだと思うだろう。同様にその理屈が僕にわからなくても、現実的に治癒すれば文句は言えない。

言われたことが事実かどうか調べようとしたが、残念なことに僕はある晩、水を飲まずに寝てしまった。23日間は続けられなかった。

扇の奥義

今年は月次祭、祇園祭、ねぶた祭と、大きなお祭りを三つも見ることができた。どのお祭りでもどこかで必ず扇子をもらった。お祭りと扇子は付きものなのだろうか? と思っていたら、書店で吉野裕子(よしのひろこ)全集を見つけ、第一巻の最初に「扇」という民俗学論文が載っていたので買って読んだ。

普通であれば俗説ではないかと思われることを丁寧に調べて書いてある。全集を全部読んでしまおうかという気になってきた。それほど面白い。著者は50歳になってから扇について調べ始め、本を書き、六十歳を過ぎて東京教育(筑波)大学の博士号を取得すると書かれていた。

現在の神道は性的なことが隠されて、もともとの意味がわからなくなっているものが多いが、その本によれば、昔は陰と陽とその交わるところに神が降りてくると考えられていた。バリ島で教えてもらった価値観とそっくりなので驚いた。

沖縄の蒲葵(びろう)から話しが始まり、扇は日本が起源にもかかわらず、どのように作られたか、どのように使うかのしきたりなど、知っている人がほとんどいないということで、吉野女史は扇に関連する祭を調べて回る。すると沖縄を軸にして次第に扇の意味、神道のかつての形が現れてくる。

ここでは丁寧な説明はできないので、興味のある人は原文を読んで欲しいのだが、いくつもある扇と神との関係の話のなかで、なるほどと思ったのがミテグラの話しだった。まとめることに問題を感じるが、端的に書くとこうだ。

祝詞などに登場するミテグラという言葉を吉野女史は二種類の意味があるといっている。ひとつは「貴重な神への進献物」、もうひとつが「両掌に捧げられた神聖な神降臨の道が開かれるところ」だそうだ。桃の節句のお雛様が扇を両手で持っているが、あの形がミテグラで、そこが神への道の入口となると言うことだ。だとすればお祭りで扇を持つことの意味が明確になる。扇を持っていれば誰のところにも神はやってくる。両手の平で作ったくぼみが陰を象徴し、そのあいだにはさんだ扇が陽を象徴する。そこは胎児が生まれる場所であり、死んだ魂が帰るところである。

 

この本の中で三角形が象徴するのは母胎であることが示される。死んだ人がかつて頭に巻かれた三角の白い布は、死んで母胎に回帰することを示していたそうだ。

ところで、昨日たまたまテレビをつけたら、トンカラリンのことが放送されていた。トンカラリンは熊本にある遺跡。

詳しいことはここに書かれている。

http://inoues.net/ruins/tonkararin.html

ここを通ると幼い頃に見た夢を思い出したと茂木健一郎氏がBlogに書いている。その夢は参道を通ってきた記憶のようだとも書いている。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/10/post_819c.html

この遺跡のなかを通っていくと、途中、岩に三角がたくさん彫られているところがあるそうだ。その三角と吉野裕子女史が書いた三角は同じ物なのではないかと感じた。もしそうだとすると、やはりトンカラリンは胎内回帰の体験をさせるための装置なのでは?と、勝手に推測した。もしそうだとしたら興味がある。「胎内記憶」を出版して以来、その話しにはどうしても興味を持ってしまう。そのことと、バリ島、そして神道がつながるってのがいとおかし。

ニュピが疑似臨死体験をさせてくれることについていつか本にするつもりだが、それに神道も関わりがあるとすると、もっと面白いことになりそうだ。

バリと日本の文化の繋がりについて表すことになるのか、隔たった場所でも人間という動物が、どの地域にいても共通して持つ感覚として胎内記憶を見るのか、おそらく両方の要素が複雑に絡むのだろうが、明確にすることができたらいいのにと思う。