あまり多くの人に読んでもらいたくない話

M社がアフラトキシンという物質が混ざっている事故米を、食べてはならないことを隠して転売してしまった。いわゆる事故米不正転売事件だ。この問題に関して、いろいろと考えていくと、どうしても「まぁ、そういうこともあるだろうな」という感覚にとらわれてしまう。そこが僕の弱いところだ。広告業界にいたとき、M社の事件を思い起こさせるようなことが何回かあったからだ。

たとえば、ひとつの例。

もう20年も前のことだが、広告会社に入って僕の最初の仕事は、テレビ局と合同でやるゴルフコンペの賭け金を集めることだった。A4の封筒の表紙にコンペに参加する人たちが競馬新聞の表のように紹介されている。

1枠 ・・ダイオー ◎ 前回のコンペでは最終ホールでつまずいた。しかし、実力はなかなか。

2枠 ハワウマ・・ ○ 前回おしくも二位。今回は優勝を狙う。

3枠 テケテケ・・ × 女性同伴でないとホールを回れないという弱点あり。

などなど

それをもって社内でそのテレビ局に世話になっている人たちのところに行って賭け金をもらってくるのだ。営業担当などはたいてい世話になっているテレビ局員に1,000円程度賭ける。なかには10,000円くらい賭ける人もいた。そうやって新入社員は社内を回ることで、何十人かの社員とテレビ局員との関係を覚えていくのだ。

もちろんはじめて回るときには自己紹介から始まる。

「はじめまして、新入社員のつなぶちと申します。今度××テレビとゴルフコンペをやるので、一口でも乗っていただきたいのですが・・・」

「ほう、新入社員か。部署は? 俺は○○社担当の△△だ。○○社は××テレビで何やってるか知ってるか? 提供番組が答えられたら一口乗ってやろう・・・」

「えーっと、確か土曜に○○○という番組があったように・・・」

「おーっ、じゃ一口は乗ってやろう。もうひとつあるんだが、それは?」

「えっ、、、、平日の昼の帯で○○○は違いましたっけ?」

「あれは他社扱いだ。減点だな」

「えっ、そんな」

「冗談だ。いいよ、ひとつ当てたから、乗ってやる。そのかわり○○社関係の面白い情報があったら必ず持ってくるんだぞ。それで貸しを帳消しにしてやる」

「はっ?」

「××テレビの□□部長には■■■という番組の時にかなり世話になっているんだ。だから□□部長に三口。そのかわり負けたらお前に貸しだからな」

「そ、そんな、、」

こんな調子だ。こうやって社内に顔見知りができて情報が回るようになっていく。「貸し」とか「借り」は半ばジョークだが、そのジョークを切っ掛けにして会話が回っていく。後日、この先輩から電話がかかってきて、「借りを返せ」という口実で仕事をもらう。たいていそれは無理難題だ。その無理難題をクリアすると「なんだ、お前もやるとできるじゃないか」とか言われる。

さて話しを本題に戻そう。当時だって、賭けゴルフが合法であったわけではない。しかし、なんとなく「それくらいはいいだろう」という雰囲気があった。しかも、賭けゴルフの集金のおかげで、社内に顔見知りがたくさんできた。みんながそのことを認めていたのである。もちろん、テレビ局も。ところが何年か前に森元首相が賭けゴルフをしたとテレビで猛烈に批判されたことがある。きっとこれでテレビ局内での賭けゴルフは御法度になったんだろうなと思った。(実際にはもっと前に御法度になっていたかもしれないけど)

話しのポイントは、20年ほど前、僕はもちろん賭けゴルフはいけないことだと知っていた。しかし、回りがみんなでそれをすることを楽しんでいる。新入社員はそれについて「違法だ」とか「やめましょう」だとか言えなかった。雰囲気に流されたのだ。ある地方とか、会社とか、あるレベルで閉じた社会にはそのような“雰囲気”というものが生まれることを会社に勤めたことで知った。

そこでM社。もちろん、M社のやったことはとんでもないことだ。だから内部告発があった。しかし、誰も正面切って「それはいけない」とは言えなかった。誰も会社からクビになどされたくないからだ。

「M社はいけないことをした」と批判するのは簡単だ。しかし、政府筋から大量の事故米の処理を頼まれ、名目を「糊」にしたが、実際には糊にはできず、M社はどうすればよかったのだろう? 事故米を買っただけでは赤字になる。

M社の肩を持つつもりはないが、よく考えていくと心が疼く。

「M社がいけない!」、以上終わり!!

としてはいけないような気がする。

政府筋の責任追及はもちろんだが、自分のなかにある「組織に流される性質」について、よく考えなければならない。

職業に貴賎なし

テイヤール・ド・シャルダンの全集がやっとそろった。7年かけて一冊ずつ集めてきた。これで念願の本が完成できる。やっと手にした第二巻を読んでいて、ふと思ったことがある。それを予備知識のない人にわかってもらうためには、かなりの文章を書かなければならないので、ここには書かないでおくが、それを考えていた際に「職業に貴賎なし」という感覚が必要になるなと思った。よく使われる言葉だが、その真の意味を理解している人は少なくなってきたようだ。「職業に貴賤なし」とネット上で検索すると、悲しい解釈がたくさん出てくる。いろんな解釈ができるだろうから、押しつけるつもりはないが、かつての日本ではこのような解釈だったと思う。

どんな職業でもかならずそれは誰かの役に立つから職業として成り立っている。そして、そのことの価値はそれによって得られる報酬とは関わりない。自分の仕事とのスタンスで価値は決まる。

現代の人は、貴賤の価値判断を収入に結びつける。そこが違うのだと思う。たとえば、どんなに収入の低い仕事でも、それがないと多くの人が困る仕事というものがある。それをしている人は、収入が少ないことを覚悟の上でそれをやっている。そのような人たちをもし収入が低いから劣った職業だというなら、その人たちはその仕事への意欲を失うだろう。低い収入にもかかわらず、その仕事をすることによって社会に貢献しているのだ。だから価値がある。現代はとても個人主義的な価値判断しかされなくなったが、「社会」という切り口から物事を見れば、どのような形にせよ社会に貢献している職業であれば価値があり、それは誰かがしなければならない。だから職業に貴賎はないのだ。

たとえば、現在漁業はガソリン価格の高騰で収入の少ない職業になってしまった。だからといって漁業をしている人たちの仕事が賤しくなったわけではない。たとえ収入が少なくなっても、魚を必要としている多くの人のために漁を続けるひとがいたとしたら、それは貴い仕事といえるだろう。農業も漁業も収入が少ないから賤しいという考えがあったとしたら、僕たちは食料を得ることができなくなる。同じように、どんな仕事でもそれがなくなると困る人が必ずいるはずだ。
人は仕事をすることで社会に貢献しているのだ。だから職業に貴賎はない。このような感覚は現代では「建前」としか理解されなくなってきているようだ。それは悲しいことだと僕は思う。

祇園祭

7月15日から17日に京都に行き、祇園祭を見た。

何年か前、真夏の京都に取材に行き、遠くから山鉾を見て、いつか祇園祭を見たいと思っていた。

祇園祭と一口に言うが、この祭はその規模がすごい。

まずその期間は7月1日から31日まで、7月一ヶ月がまるまる祭になる。

「京都の人」とひとくくりにしては失礼かとは思うが、僕の知っている京都の人がおっとりしているのにどこか着実に物事を運ぶその性質を、この祭を見ることで納得してしまった。

毎年このような祭をおこなうためには、ある期間をもって着実にするべきことをこなしていかないとうまくいかないだろう。その性質が「京都の人」にしっかりと定着しているような感じを受けた。

今回、行くまで何も知らなかったので、僕のように何も知らない人に祇園祭がどんな祭かと一言で説明すれば、疫病退散、厄よけのための祭だ。

863年に疫病が流行り神泉苑ではじめての御霊会がおこなわれる。869年にも流行り、このときに卜部日良麻呂(資料によっては日良麿)が66本の矛(当時の国の数)を立てて牛頭天王を祀ったことが伝統となる。昔は祇園御霊会と呼ばれていた。

一ヶ月の間に様々な行事が執り行われ、それぞれが有機的に進行し、おそらくすべての行事を見ようとするのは無理だろう。ウィキペデイァには以下のようにその日程が書かれている。しかし、実際にはもっと細かい神事や儀式がほぼ毎日のようにおこなわれていく。

  • 7月1日 – 吉符入(きっぷいり)。祭りの始まり。
  • 7月2日 – くじ取り式。
  • 7月7日 – 綾傘鉾稚児社参。
  • 7月10日 – お迎え提灯。
  • 7月10日 – 神輿洗い。
  • 7月10日から13日まで -山建て鉾建て。分解収納されていた山・鉾を組み上げ、懸装を施す。
  • 7月13日 – 長刀鉾稚児社参(午前)。
  • 7月13日 – 久世駒形稚児社参(午後)。
  • 7月14日 – 宵々々山。
  • 7月15日 – 宵々山。
  • 7月16日 – 宵山。14~16日をまとめて「宵山」と総称することもある。
  • 7月16日 – 宵宮神賑奉納神事。
  • 7月17日 – 山鉾巡行。
  • 7月17日 – 神幸祭(神輿渡御)。
  • 7月24日 – 花傘巡行。元々、この日に行われてた後祭の代わりに始められたもの。
  • 7月24日 – 還幸祭(神輿渡御)。
  • 7月28日 – 神輿洗い。
  • 7月31日 – 疫神社夏越祭(えきじんじゃなごしまつり)。祭りの終わり。

これだけ見ただけでも驚いてしまうが、調べれば調べるほどいろんな細かい行事が現れ、とても網羅はできないような気がする。それだけ細かいのは安土桃山時代から江戸時代にかけて京都では町組(ちょうぐみ)が整備され、山鉾町と寄町が定まり、それぞれの町が鉾や山を出すようになったからだ。それぞれの町がそれぞれの山鉾のために儀式を行う。山鉾は応仁の乱以前には58基あったそうだ。現在は35基あり、今年は3基が休んだため32基が山鉾巡行に登場した。

以下は宵山での山鉾の様子。

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