地球交響曲(ガイアシンフォニー)について その1

1993年、京都でグローバル・フォーラムという会議がおこなわれた。
グローバル・フォーラムはそのとき3回目の開催で、1回目が1988年4月にイギリスのオックスフォード大学でおこなわれた。
東京でグローバル・フォーラムの事務局をしていた人と知り合い、その写真を見せてもらった。
ゴルバチョフ、マザーテレサ、ダライラマ法王、カール・セーガンなど、見知った顔が並んでいた。世界中の政治、宗教、文化、科学の代表格といえるような人たちが一堂に会し、地球環境についての話し合いをする機会だという。その企画を実現した人は国連の元職員で松村昭雄さん。そんな会議が当時おこなわれていたということを僕は知らなかったので「こんなすごいことする人に一度会ってみたい」とつい言った。
1989年の夏だったと思う。僕の会社のデスクに電話がかかってた来た。受話器を取ると「松村です」という。
「どちらの松村様でしょうか?」
「グローバル・フォーラムの松村です」といわれて、びっくりした。
「日本にいらっしゃるのですか?」
「いまニューオータニにいます。少々ご相談したいことがありまして、お目にかかることはできますか?」
その晩、ニューオータニで会った。そして、京都でおこなわれるグローバル・フォーラムを手伝ってほしいと言われる。

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トリチウム水を飲むとどうなるの?

2019年9月10日、環境相退任前日に原田義昭前環境相は「思い切って(海洋に)放出するほかに選択はない」と語った。放射性物質トリチウムを含む処理水の海洋放出を主張した。
処理水は今も毎日170トンずつ増え、現在計116万トンがタンク約千基に保管されている。東京電力は2022年夏ごろには満杯になり、原発の廃炉作業にも支障が出る恐れがあるとしている。国は有識者でつくる小委員会を設置し、気体にして大気中に放つ「水蒸気放出」や「地層への注入」なども選択肢に処分方法を話し合っているが、答えは出ていない。
メディアは風評被害のひとつというように問題を矮小化しようとしているが、それは果たして本当か? もしトリチウム水を飲んでしまったら、どうなるのか?

○なぜ政府は安全だというのか。
そもそもトリチウム水は、仕方なく放流するものだった。
原発によって産まれてしまい、取り除くことができないから。
それを安全だという理由は大まかにいってふたつ。

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フランシスコ教皇の言葉

ローマ教皇フランシスコは、2019年11月23日に東京に到着し、24日に長崎、広島、25日に東京ドームで集会をおこないました。本日26日に上智大学を訪れ、帰途に着く予定です。

以下はその際に残された言葉です。

ローマ教皇 東京ドームでミサ
文字起こし つなぶちようじ
https://www.youtube.com/watch?v=myc2pzQM1m0

45:30
日本人司教による福音書の朗読。

主はみなさんとともに マタイによる福音

そのときイエスは弟子たちに言われた。
「誰もふたりの主人に仕えることはできない。一方を憎んで、他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は神と富とに仕えることはできない。だから言っておく。自分の命のことで、何を食べようか、何を飲もうかと、また自分のからだのことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、からだは衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、蔵に収めもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養ってくださる。あなた方は鳥よりも価値あるものではないか。あなた方のうち、誰が思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか。なぜ衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえこの花のひとつほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ神はこのように装ってくださる。ましてあなた方にはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ、だから何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかといって思い悩むな。それは皆、異邦人が切に求めているものだ。あなた方の天の父は、これらのものがみな、あなた方に必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる。だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日、自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで充分である」
キリストに賛美。

ローマ教皇の言葉 同時通訳 菱川宏美
51:10
いま聞いた福音は、イエスの最初の長い説教の一節です。山上の説教と呼ばれているもので、私たちは、歩むよう招かれている道の美しさを説いています。聖書によれば、山は神がご自身を明かされ、ご自身を知らしめる場所です。神はモーセに「私のもとへ登りなさい」と仰せになりました。その山頂には首位主義によっても、出世主義によっても、到達できません。分かれ道において主なる方に注意深く、忍耐をもって、丁寧に聞くことによってのみ到達できるのです。山頂は平原となり、私たちを囲むすべてのものへの常に新しい眺望「御父の慈しみを中心とした眺望」を与えてくれます。イエスにおいて、人間とは何かを明らかにする山頂と、どんな人間的な計算をも凌駕する完成に至る道を見出します。イエスにおいて、神に愛されている子供の自由を味わう新しい命を見出すのです。

しかし私たちはこの道において子としての自由が窒息し、弱まるときがあることを知っています。それは不安と競争心という悪循環に陥るとき、あるいは私たちの選択を図り認めるため、また、自分は何者か、どんな価値があるのかを決めるための唯一の基準として、自分の関心や最大限の力を、生産性と消費への行き詰まる熱狂的な追求に注ぐときです。

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