縦書きブログについての簡単な考察

ブログは現在すべて横書きですが、縦書きのブログがあったらそれをぜひ使いたいと思っています。そこで、もし縦書きのブログがあったら、それがメディアとして何を伝えるのか考えてみました。マクルーハンが「メディアはメッセージである」と書いてますが、縦書きブログがどんな「隠されたメッセージ」を発することになるのかについての、とても短い考察です。

縦書きブログについて考える前に、横書きのブログがどんな隠されたメッセージを発しているかについて考えましょう。

まず横書きのブログはその多くが最新の書き込みを一番上に置き、古いものほど下に行き、さらに古いものはトップページからは消されて、何かの方法で探さないと読めなくなっています。ブログによってそのアクセス方法はいろいろとありますが、一般的なブログは時系列で追えるようにセットされています。そして、古い記事ほどアクセスが難しくなっています。多くの場合、トップページの下に「前のページへ」というリンクがあり、それをクリックしていくことで次第に古い記事にたどり着けるようになっています。だから古い記事ほど何回もクリックをしなければなりません。そのことはつまり古いものの価値が、新しい内容の価値よりないことをそれとなく伝えているのです。最新の記事がもっとも価値があり、過去の記事ほど読みにくいのですから。しかも、古い記事が下に流れていくことで、あたかも地面に埋もれていくような感覚を、静かに読者へ伝えているのです。もし机の上で横書きのブログを読んでいたとしたら、過去の記事はすべて机の下に流れていき、それはやがて土の中に入り、土と一緒に腐敗して、いつしか大地の養分となるようなイメージです。

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twitterでいつの間にか水を飲んだ日本人

『スーフィーの物語』という本があります。この本にはスーフィーたちが精神的成長を得るために伝承されてきた話がたくさん紹介されているのですが、そのなかにこんな話が登場します。

昔々、モーセの師のハディルが、人間に警告を発した。やがて時が来ると、特別に貯蔵された水以外はすべて干上がってしまい、その後は水の性質が変わって、人々を狂わせてしまうだろう、と。

ひとりの男だけがこの警告に耳を傾けた。その男は水を集め、安全な場所に貯蔵し、水の性質が変わる日に備えた。

やがて、ハディルの予言していたその日がやってきた。小川は流れを止め、井戸は干上がり、警告を聞いていた男はその光景を目にすると、隠れ家に行って貯蔵していた水を飲んだ。そして、ふたたび滝が流れはじめたのを見て、男は街に戻っていったのだった。

人々は以前とはまったく違ったやり方で話したり、考えたりしていた。しかも彼らは、ハディルの警告や、水が干上がったことを、まったく覚えていなかったのである。男は人々と話をしているうちに、自分が気違いだと思われていることに気づいた。人々は彼に対して哀れみや敵意しか示さず、その話をまともには聞こうとはしなかった。

男ははじめ、新しい水をまったく飲もうとはしなかった。隠れ家に行って、貯蔵していた水を飲んでいたが、しだいにみんなと違ったやり方で暮らしたり、考えたり、行動することに耐えられなくなり、ついにある日、新しい水を飲む決心をした。そして、新しい水を飲むと、この男もほかの人間と同じになり、自分の蓄えていた特別な水のことをすっかり忘れてしまった。そして仲間たちからは、狂気から奇跡的に回復した男と呼ばれたのであった。

『スーフィーの物語』 イドリース・シャー編著 美沢真之助訳 平河出版社刊 「水が変わったとき」

世の中には時々、これに似た状況が生まれることがあります。はじめにそれを体験したのは環境広告についてでした。かつて広告会社に勤務していた頃、日本にはまだ環境広告はありませんでした。そのことについて話をすると「日本ではそんな広告をやろうとする会社はない」と馬鹿にされました。ところが、それから一、二年後には環境広告がぽつりぽつりとおこなわれるようになり、いまでは当たり前になっています。

同様に僕が最近驚いていることは、「自分の気持ちをオープンにBlogに書いている人」が多くなったことです。かつてヒーリング・ライティングというワークショップをはじめた頃、自分の心の中のことを自由に書いて下さいと言っても、多くの人は「そんなことしたことがない」「人前で自分の気持ちをさらすなんてできない」と抵抗されたことがありました。ところがいまではみんなネット上で、偽名を使っているかもしれませんが、さらさらと書いています。世の中変わったなぁと感じます。以前は自分の思ったことを書くためのノートを持ち歩いているというだけで、変な人と思われました。いまでは落書き帳のようなものを持ち歩いている人はたくさんいます。

世の中は、意識の持ち方でやっぱり変わるのですね。

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不可知への冒険

先日来使っているtwitterに田口ランディさんが書き込んだ。

角川学芸出版ウェブマガジンでの連載開始http://bit.ly/D3QED  つなぶちさん、ぜひ読んで!「あーっあの時か?」と思う箇所がいくつもあるはず。

読んでみると確かにいくつも思い出の話しが載っている。どの話しも、自分が体験したことでなければにわかには信じられないような話しだ。

僕が不思議な体験をし始めたのはいつからだろうと思い出してみる。はっきりと言えるのは中学一年の時だった。それから何度か?と思う体験をしている。そういう話しは自分でも理解できないのでしばらくすると忘れる。だけど、何かのきっかけで思い出してしまう。そしてどうしても短絡的な答えを作りたくなる。理解できないでいることが苦しいから。わかった気になるのが楽なのだ。不思議な体験をしたらそれが霊の仕業だというのも簡単な答えだし、科学的に説明するとこうなるというのも簡単な答えだ。そして実際のところは、説明しきれないような深遠な何かがあるのではないかと思う。しかし、この「深遠な何か」と断定するのも簡単な答えの一つだ。

だいたい僕たちはなぜ生きているのかすら知らない。どんなに医学が発達しても、なぜ生命が生まれるのか、なぜ生命というものが形作られたのか、答えを知らない。「そういうもの」という前提に立って考えるよりほかに仕方ない。そうであるなら、目の前に現れる不思議な出来事も、ただ「そういうもの」と受け入れるしか仕方ないはず。いまはまだ多くの人が科学的でないことは「そういうもの」とは考えない。理屈に合わないと現実を見ないのだ。本当は自然や宇宙が先にあって、それに合わせて理屈を作っているのに、精巧な理屈ができると、それに合わない現実は排除されていく。このあたりのことを森達也さんは「スプーン」という本でうまく書いていた。超能力者と付き合ううちに生まれてくる葛藤。その葛藤に森さんはじっと付き合っている。

僕がバリ島に10年ほど通ったのも、何か説明できないものがあったからだ。その説明できないものを理屈で割り切ると、いかにもわかった気になれる。しかし、それはあくまでその気になれるだけだ。にも関わらず僕は、それを理屈で説明したいと思う。ようは馬鹿だと言うことだ。しかし、人間は馬鹿でないとならないときがあるんだなと思うようになった。馬鹿が世界を動かすんだと思う。理屈だけではがんじがらめになって動けなくなる。理屈で編まれた体系を突き破る行動が大切なのだと思う。

ウェブマガジンに登場する「青龍」の話しも僕は同席していた。そしてそのあと確かにランディさんはものすごい勢いでデビューする。本当にびっくりした。

ランディさんのスタンスは、どんなにわからないことでも、不条理なことでも、観察することだ。「コンセント」ではお兄さんの死をじっと観察した。そして観察している本人の心も観察していた。最近作「パピヨン」でもお父様とキューブラー・ロスの死をじっと観察した。わからないことについての観察は能力がいる。ランディさんはそういう、わからないことを観察する能力に長けている。じたばたするし、泣き言も言うが、その部分が読者を救ってくれる。もしその部分がなかったら、読者は書かれている内容を直視できないだろう。ランディさんのわからないことを観察し、それを読者に伝える能力のすぐれた点は、実はそのじたばたや泣き言にあると僕は思う。

ランディさんはこれから「不可知への冒険」でどんな物語を紡ぐのだろう。理屈で編まれた体系を突き破るような作品を期待している。