京都国際マンガミュージアムってこんなところだったんだ

京都国際マンガミュージアムに行きました。どんなところかよく知らずに、たまたま通りかかったので一時間ほど立ち寄ったのですが、いろいろと面白かったです。

まずミュージアムの前に広い庭があって、そこにコスプレの若者がたくさんいました。

何人かにお願いして写真を撮らせてもらいました。きっとマンガに詳しい人なら誰のコスプレかわかるんでしょうね。僕には全然わからなかった。

ある人に「どこから来たの?」と聞いたら、恥ずかしそうに「神戸から来ました」と答えてくれた。「原宿の駅前にもコスプレの人たちがたくさんいるよ」と言ったら「いつか行きたいんです」と。

コスプレってしたことがないので楽しさがよくわからないけど、バリ島に行ったときに礼拝用の衣装を着ると、うれしいような、おかしいような、高揚した気分になるのですが、それに似ているのかな。自分が大好きなキャラクターになりきることができるというのも面白い要素なんだろうな。

館内に入っていったら、なんと受付の人までコスプレでした。思わず笑ってしまいました。楽しくて。

展示もいろいろとあるけど、ここのウリは漫画本です。たくさんのマンガが収蔵されていて、それを勝手に読めるようになっています。時間があれば好きなマンガをいくらでも読める。もっと時間のある時にもう一度行きたい。

このミュージアムで感心したのは、廃校になった龍池小学校の校舎をそのまま使っていることと、龍池小学校の歴史をきちんと拝観者に伝えていることです。左の写真は龍池小学校の歴史を紹介している部屋。

さらに感心したのは、龍池小学校の歴史がマンガになっていました。

多くの若者が来る場所としてリニューアルし、しかもそのなかでその地(龍池小学校)の紹介まで若者が興味を持てるようにするなんて、素敵ですね。

漫画本はこんな風に廊下に沿って収蔵されています。

 

ミュージアムの蔵書の中に、僕が原作を書いたマンガがありました。うれしかった。

 

校庭の端に龍池小学校の石碑がありました。「たついけの 子らはのびゆく」と書かれていますが、いまでは「たついけの子ら」だけではなく、「日本の子らはマンガでのびゆく」と言っているように思えた。

京都国際マンガミュージアムHP

風の馬

チベットのお祭りはとてもカラフルだ。その理由の一つは『ルンタ』があること。実物は一昨年のチベットスピリチュアルフェスティバルで見た。実際にチベットには行ったことがないが、きっと遠くから見たらきれいだろう。

この書き込みのタイトルである『風の馬』は『ルンタ』のことを意味している。今度四月から『風の馬』という映画が上映されるのだ。

この映画がとても楽しみなのはその撮影方法にある。この映画はチベット解放を訴える映画でありながら、チベットとネパールで撮影された。もし中国政府やネパール政府に見つかったら、撮影中止を余儀なくされたであろう映画なのだそうだ。

北京オリンピックの時にYou Tubeでチベットから脱出しようとする人たちを銃殺していた映像が流されたが、そこに寄せられていたコメントは僕の気持ちになじまないものだった。確かにあの映像が本物なら非難されるべきだが、だからと言って中国の人すべてが悪いわけではない。あのようなシステムになっているシステムが問題なのである。中国国内の人もそのシステムに苦しめられているかもしれない。ところがそれを「中国はダメだ」とばっさりと切り、「あのような国とは戦うしかない」という短絡的な答えを導いてしまってはならないと思う。

『風の馬』が楽しみなのは、チベットの人たちがどんなことに苦しんでいるのか、それを一部かもしれないが伝えてくれる試みだからだ。

中国には中国の悩みがあり、チベットにはチベットの悩みがある。それがわかっているからダライラマはあえて戦おうとはしないのだと思う。煽動するのは簡単だ。歴史はそれを何度も繰り返してきた。それ以外の方法でなんとかしていくためには何が必要なのか。それを話し合うことが大切だろう。そして、それは簡単なことではないだろう。『風の馬』はささやかかもしれないが、煽動ではない方法での解決へと導く可能性の一つかもしれないと僕は思う。

中国の人たちがこの映画を観たらどう感じるのだろう?

中国の人たちを責めるのではなく、この事実にどう対面するのか、その気持ちを聞いてみたい。その上で、何かの対話が生まれたら、素敵なことだと思う。そして、もしも可能であれば、なぜ中国はあのような体勢をとり続けなければならないのか聞いてみたい。

映画『風の馬』

同時上映の「雪の下の炎」のサイトはこちらです。これも見てみたいですね。

 映画『雪ノ下の炎』

ところで、ダライ・ラマ日本代表部代表だったチョペ・ペルジョル・チェリン氏の自伝「万物の本質」には、チベットの一般の人たちにとって中国の侵攻がどのようにおこなわれ、どのように見えたかが詳しく書かれています。

ニュー・シネマ・パラダイス

いままでに見た映画の中で一番面白かったのは何かと聞かれてすぐに思い出すのが「ニューシネマパラダイス」だ。この映画は映像にされてないたくさんのことを思わせてくれるのだ。小説において「行間を読む」ことは大切なことだし、素敵なことだ。映画においては「背景を観る」といえるだろう。それは映画の背景であり、それを観ている自分自身の背景を感じることでもある。この映画はたくさんの背景を浮き上がらせてくれる。

「ニュー・シネマ・パラダイス」の概要はこうだ。

功成り名を遂げた映画監督サルヴァトーレ(通称トト)は幼い頃、小さな町の教会で上映される映画を楽しみにしていた。そのときの映写技師は上映するために前の晩にキスシーンを削除する。戦争のためか、教会で上映されるためだったかは忘れてしまった。トトはそのフィルムをくれとせがむが与えてはもらえない。次第に映写技師の手伝いをし、恋をし、成人すると、母の止めるのを聞かずに町を出る。町を出ることを決める前は町に残り、映写技師になろうとするが、父親代わりのようになった映写技師は、トトに町を出て、さまざまな勉強をしろと勧めたのだった。

年月が経ち、トトが有名な監督になったある日、母親からの手紙で、映写技師のおじさんが亡くなったことを知る。トトは映画監督としては成功しているが、いつも恋愛につまずいていた。何十年かぶりで帰る田舎の町。実家に帰ると母親は、成人まで暮らしていた監督の部屋をそのまま残していることに驚く。そして、葬儀へ参列する。青年の頃に離れた町での出来事を噂などで断片的に知る。

映写技師は監督に荷物を残していた。その包みの中身は、昔譲ってもらえなかったキスシーンのフィルムだった。監督は自分のオフィスに帰り、もらったフィルムをつなぎ、上映する。次々と現れるキスシーンに目頭が熱くなる。

この物語の素晴らしいところは、映写技師とトトとのあいだに読み取れる父親と息子の関係。さらに、母親の息子への愛情。それらが物語の行間にあふれ出てくること、物語の背景が画面から語りかけてくることだ。

ひとつのヤマは主人公が列車に乗って町に旅立つところ。行くなと止める母親と、行けと促す映写技師に、誰もが父親と母親の息子に対する葛藤を読み取っただろう。

僕の父は放任主義で、僕がどんなことを勉強しようとしても、どんな会社に入ろうとしても、思うようにしなさいとしか言わなかった。一方母親はいろんなことで心配していた。海外旅行に行こうとしたら、あまりにも心配だと言って行かせてもらえなかったこともある。それが原因で夫婦喧嘩にもなった。だから旅立ちのこのシーンは、僕の両親の葛藤を思い起こさせてくれた。

葬儀のために監督が帰ってきたとき、自分の部屋がそっくりそのまま残されていることに驚くシーンがあるが、あれも僕の母親のやりそうなことだなと思った。

つまり、僕は映画を観ながら、自分自身の人生や両親のことについて追想していたのだ。

映画のラストでは、葬式でもらったフィルムをつなぎ合わせ、監督はただ黙ってその画像を見るのだが、そのときに流れるキスシーンの連続は、見えている画像はキスシーンでありながら、僕たち観客は何十年もの映写技師とトトとの思い出をダフらせて観ることになる。

何度も何度も繰り返されるキスシーン。いろんな俳優が演じるそのキスシーンを観ながら、観客は自分の人生や、トトの人生、両親との関係、実らなかった恋、現在の家族関係などを画像の向こう側に観る。まさに映画を見ながら観客はその「背景を観る」ことになる。映画の「背景」はもちろん、自分の普段は隠されている「背景」をも。