紅龍さんの大愛瞑想

伊勢神宮の月次祭にはじめて参列したのは、2008年6月だった。そのときの様子はこちらに書いた。
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/p36/
神嘗祭にも行った。そのときの様子はこちら。
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/p2982/#more-631
どちらのお祭りも紅龍さんにお導きいただき参列した。
紅龍さんは当時開運カウンセラーとして働いていた。
『開運ハッピーステップ』という本を出版なさっている。
10年ほど前、主婦の友社から出ていた『全開運!しあわせ』という雑誌に連載させてもらったことがあるが、紅龍さんから編集長をご紹介いただき、連載することになった。そのときのpdfがこちらにある。
http://www.healingwriting.com/pdf/iyashinojikan.pdf

紅龍さんは2012年頃から國學院大學に入学され、神道の研究を本格的に始めた。首席で卒業して神職にもなった。ところが、次に何をしようかと考えていたとき、大愛が降りてきた。大愛とは、ある心の状態。そのことについていろんな人にお話ししていくうちに、大愛瞑想という形にして、瞑想ワークショップをするようになった。それは瞬く間に広がり、全国で開催され、紅龍さんは大忙しになっていった。

2018年からレゾナンスCafeで一緒に初詣に行くことにしていた。2019年の初詣も、紅龍さんと一緒に行くはずだったが、体調が悪いということで、欠席なさった。
「なんのことはない、大丈夫」とのことだったが、それから数ヶ月、大愛瞑想はおこなわれていなかったし、連絡も取りにくいので、ある日会いに行った。とても具合が悪そうだった。

それからまた一月後くらいに会いに行った。とてもやせていて、歩くのも大変のようだった。それから何度かお見舞いに行ったが、なかなか良くはならなかった。

すっかりやせて、彼女も死を覚悟した頃、「大愛瞑想を本にして」と頼まれた。

紅龍さんは2019年9月27日、永眠なさった。

約束の本はできたが、出版社が決まらなかった。亡くなって一年がたっても決まらない。あまり先延ばしにするのはよくないなと判断して、できた本をepubにして、大愛瞑想に参加していた人たちを中心に配布することにした。

紅龍さんがこの世に遺していったプレゼントです。ぜひお読み下さい。
https://www.tsunabuchi.com/epub/biglovemeditation.epub

これを読むためにはepub用のリーダーアプリケーションを入手してください。

pdfで読みたい方はこちらです。
https://www.tsunabuchi.com/pdf/biglovemeditation.pdf

複雑性と愛について考える

僕たちにはいま、いろんなことを考えるための時間を与えられた。何をどう考えるべきか? あまりにも考えるべきことは多いので、たった数週間で答えは出せないかもしれない。でも、何事にもトライは大切。

長い話になるけど、この話は最後には「愛とは何か?」につながります。愛について深く考えるための「ある側面」について書いていきます。興味のある方はお付き合いください。

複雑性が大切な時代だと言われる。なぜ複雑性が大切なのか? 前提がたくさん必要なのは知っているが、それを言い出すとなが〜い文章になってしまうからかなりはしょる。わからない人は質問してください。なんとなくわかった人はそれでよしとしてください。理論的に科学的に正しいことを求めていくと、きっと訳が分からなくなります。なぜそうなってしまうのかについては、またいつか説明します。

複雑性が大切なのは「僕たちがひとりひとりみんな違うから」。もし複雑性が大切だと気づけないと、僕たちは「ひとりひとり違う」ことを容認できないということになる。

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フランシスコ教皇の言葉

ローマ教皇フランシスコは、2019年11月23日に東京に到着し、24日に長崎、広島、25日に東京ドームで集会をおこないました。本日26日に上智大学を訪れ、帰途に着く予定です。

以下はその際に残された言葉です。

ローマ教皇 東京ドームでミサ
文字起こし つなぶちようじ
https://www.youtube.com/watch?v=myc2pzQM1m0

45:30
日本人司教による福音書の朗読。

主はみなさんとともに マタイによる福音

そのときイエスは弟子たちに言われた。
「誰もふたりの主人に仕えることはできない。一方を憎んで、他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は神と富とに仕えることはできない。だから言っておく。自分の命のことで、何を食べようか、何を飲もうかと、また自分のからだのことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、からだは衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、蔵に収めもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養ってくださる。あなた方は鳥よりも価値あるものではないか。あなた方のうち、誰が思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか。なぜ衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえこの花のひとつほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ神はこのように装ってくださる。ましてあなた方にはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ、だから何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかといって思い悩むな。それは皆、異邦人が切に求めているものだ。あなた方の天の父は、これらのものがみな、あなた方に必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる。だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日、自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで充分である」
キリストに賛美。

ローマ教皇の言葉 同時通訳 菱川宏美
51:10
いま聞いた福音は、イエスの最初の長い説教の一節です。山上の説教と呼ばれているもので、私たちは、歩むよう招かれている道の美しさを説いています。聖書によれば、山は神がご自身を明かされ、ご自身を知らしめる場所です。神はモーセに「私のもとへ登りなさい」と仰せになりました。その山頂には首位主義によっても、出世主義によっても、到達できません。分かれ道において主なる方に注意深く、忍耐をもって、丁寧に聞くことによってのみ到達できるのです。山頂は平原となり、私たちを囲むすべてのものへの常に新しい眺望「御父の慈しみを中心とした眺望」を与えてくれます。イエスにおいて、人間とは何かを明らかにする山頂と、どんな人間的な計算をも凌駕する完成に至る道を見出します。イエスにおいて、神に愛されている子供の自由を味わう新しい命を見出すのです。

しかし私たちはこの道において子としての自由が窒息し、弱まるときがあることを知っています。それは不安と競争心という悪循環に陥るとき、あるいは私たちの選択を図り認めるため、また、自分は何者か、どんな価値があるのかを決めるための唯一の基準として、自分の関心や最大限の力を、生産性と消費への行き詰まる熱狂的な追求に注ぐときです。

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