綱淵謙錠、一字題の訳

先日、Tokyo Water Clubという異業種交流会で、僕の父に関する講演をさせていただいた。講演の準備にいろいろと調べていくと、以前にはわからなかった謎がいくつか解けた気がする。なぜ「解けた」と言い切らず、「解けた気がする」と少し曖昧にするのかというと、もう父は生きてないので確認することができないからだ。
 
父は綱淵謙錠(つなぶちけんじょう)というペンネームで作家だった。1972年上半期の直木賞をいただいた。多くの作品が一字題で、テーマは「敗者」ばかりを選んでいた。前半生は苦労の連続だったようだ。僕はあまり謙錠から本人自身の話を聞いたことがない。僕が謙錠について知っていることは、黙って書斎に籠もっている姿と、晩年二人でSeven Seasという月刊誌に14回にわたって連載させてもらったときのインタビューと、あとは残された著書程度のものである。講演を依頼されても、果たして話すことがあるかどうか心配だった。
 
謙錠の年表や作品を調べていくと、いくつかなるほどと思ったことがある。そのひとつが、なぜ一字題にこだわったのかだ。講演内容を考えていたとき、「一字題の理由」と「敗者の文学」について語ろうかと思ったが、一字題のほうはきっと明確なことはわからないだろうと思い、敗者の文学についてのみ語ろうと思っていた。ところがあることを思い出したことがきっかけで、なぜ謙錠が一字題にこだわったのか、その理由がわかった気がした。
 
謙錠は樺太の網元の家に生まれた。当時北の漁場で網元をしていると鰊御殿が建つと言われたほど儲かったようだ。鰊は季節になると産卵のため大挙してやってくる。その群れはとても大きく、海面が鰊の大群によって盛り上がるほどだったという。その状態を形容する言葉もあり、群来(くき)ると言ったそうだ。ところが、謙錠が小学校に上がる頃に家は没落する。砂浜の近くの小屋に住むようになった。なぜ没落してしまったのか、その理由を僕は知らなかった。謙錠が死んでから謙錠の従兄弟にあたる綱淵昭三に会ってはじめて理由を聞いた。当時、港には綱淵桟橋があり、そこに何艘もの船が繋留されていた。その桟橋がまるごと放火にあったそうだ。
 
昭和初期、樺太の大きな屋敷に住んでいた小学生が、ある日から海岸沿いの小屋に住むようになったとしたら、まわりの子供たちからはどんな扱いを受けただろう? いじめられなかったとしても、少なくとも好奇の目で見られたことは間違いないだろう。謙錠はそれが余程悔しかったのか、勉強に打ち込み、中学では成績が学校でトップとなり、第一回樺太庁長官賞というものをもらう。その後、旧制一高を受けに行くが落ちてしまう。一年浪人の後、旧制新潟高校に入る。高校卒業と同時に東京大学に入学するが、学徒出陣で戦場へ。生きて帰ると故郷である樺太がソ連に占領されていた。家がなく、財産もなく、その日暮らしでなんとか生き延びていく。このとき以来、謙錠は自分のことを流浪者と呼ぶようになる。そして様々な苦労を重ねた上でやっと中央公論社に入る。
 
入社翌年「中央公論」の編集担当となり、翌々年に谷崎潤一郎の担当として『鍵』を編集する。当時中央公論は発行部数も多く、人気のある一流総合誌だった。その編集者となり、しかも谷崎潤一郎という人気作家の担当になったのだからよほど嬉しかったに違いない。謙錠の長男は「純」というが、谷崎潤一郎の「じゅん」をいただいたのだという。ただし、まったく同じ「潤」では申し訳ないので「純」にしたのだとか。もしそれが本当だとすると、中央公論社に入社する以前から谷崎潤一郎のことを尊敬していたことになるのだから、その喜びはどんなものだったのだろう。
 
そのことがうかがい知れる文章が『斬』のあとがきにある。あとがきの書き出しは、漁に出て事故に遭った人たちを弔う謙錠の母の思い出からはじまり、その母から<おまじない>の言葉をもらう話に移っていく。幼い頃、樺太の真っ暗な夜道を帰るときなど、その<おまじない>「ガストーアンノン テンニンジョージューマン」を唱えながら歩いたそうだ。そしてこう続く。
 
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ウブドでAKOちゃん

ニュピの前日、ウブドの交差点でブタカラのお祭りがおこなわれていた。一時間近く炎天下に立っていたので、木陰に入って休んでいたら、隣に怪しげな風貌の男が立っていた。リュックに「脱原発」と書かれていたので話しかけてみた。

「話しかけてもいいですか?」

「あ、ありがとうございます」

「原発の反対運動をしているのですか?」

「はい、さっきもそこで立っていたら警官がやってきて追い払われました」

「立っているだけで追い払われるの?」

「インドネシアでは脱原発を公で訴えると法律違反なんだそうです」

「なんで?」

「日本がインドネシアに原発を輸出しようとしていて、それに反対することを禁じているんです」

「そうなんだ。それでバリ島に来たの?」

「世界中旅してます」

「脱原発を訴えて?」

「はい、そうです」

「ホームページとかはあるの?」

「友達や仲間が作ってくれています」

「あなたのしていることをどうやって調べたらいいの?」

「ありがとうございます」

そういって一枚の紙切れを手渡された。

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アーニー・ガンダーセン 岐路に立つ日本

9/5にフェアウィンズ・アソシエーツのアーニー・ガンダーセンの講演を聴いてきました。その概要をここに記します。いつもと同様メモによるものなので多少の違いはあるかもしれませんし、ところどころ話しが抜けてしまっています。ご容赦を。

日本は今がチャンスである。なぜなら、原発を選ぶか否か、明確な選択ができる状況が整って来たからだ。そして、選択後にはその影響が大きく現れる。

かつてわたしはスリーマイル島事故の専門家として法廷で証言しました。この経験があったからこそ、みなさんの前に立っています。311が起きたあと、メルトダウンするとすぐにわかりました。当時、専門家がメールのやりとりをしていて、それを読んでいれば事実はほとんどわかりました。私がほかの専門家と違ったのは、それを公に発表したからです。スリーマイル島のとき、アメリカ政府はその事故のことを隠蔽しました。そのときわたしは妻と約束したのです。同じようなことが起きたとき、過ちは繰り返さないと。政府が過小評価するであろうことは予測できました。すでにスリーマイル島のときに経験していたからです。

CNNから連絡が来たのは幸いでした。アメリカの人たちに福島で何が起きたのか話せたから。あのとき日本政府はレベル4だと発表し、アメリカ政府はレベル5だと発表しましたが、そのときにはもう実はレベル7であることはわかっていました。

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