不思議な話 夢枕に立つ

世の中には不思議な話がたくさんあるが、そのひとつとしてよくある話が、誰かが夢枕に立つ話だ。先日知り合いからこんな話を聞いた。

北陸に住むある人が、弘法大師の夢を見た。それは、弘法大師がその人にこんなことを告げる夢だった。そこからほど近いある土地に、大きな土蔵があり、その中に弘法大師の描いた掛け軸があるので、それを持ち出してある寺に持っていって欲しい。その夢を見た人が実際に言われた土地に行くと、確かに大きな土蔵があったので、その家の人に事情を説明しようとして呼び鈴を押すと、その家の主人は「あなたを待っていた」というのだそうだ。そして「私の所にも弘法大師が夢枕に立ち、あなたのような人が来たら掛け軸を渡してくれと言われた」といった。無事にその掛け軸は手渡され、指定されたお寺に預けられたという。

この話を思い出したのは、いま読んでいる『日本の即身佛』という本にこんな話が書かれていたからだ。

昭和四十二年の四月に、発掘後百四十一年を経て、ふたたび地下に埋葬された少女ミイラの例もある。

この少女は茨城県水海道市の某家の娘で、文政九年(一八二六)四月七日に疱瘡で亡くなった。行年は十歳だった。多少伝説めくが、その家に伝わる話では、少女の遺骸は付近の浄土宗の寺に埋葬されたが、生前その子を溺愛していた曾祖父が、供養のために毎夜寺の本堂にこもり、読経し鉦をたたいて徹宵をつづけた。それは、鉦を八個もたたきつぶすほどの執念であったという。こうして少女の歿後二百八十余日目のこと、曾祖父の夢枕に娘がたち、しきりに墓から出してくれと頼んだ。そこで墓をあばいたところ、カタマリボトケ(ミイラ)になっていたので、ひそかに持ち帰り仏壇脇に鄭重に祀った。すると浄土宗本山増上寺の大僧正の夢にこのことが現れ、二人の使僧が水海道に訪ねてきて、はじめて近郊の評判になったというものである。

少女のカタマリボトケは、その後百年ばかりのあいだは毎年春の彼岸とお盆の二回、近在の人びとに開帳されていたが、昭和の初頭のころから新潟の円光寺に安置されるようになった。それがふたたび四十二年四月の祥月命日に実家に戻され、もとの墓所に埋葬されたものである。

『日本の即身佛』 佐野文哉・内藤正敏共著 光風社書店刊

誰かが夢を見るだけなら少しも不思議なことではないが、本人が知らないことを夢で知り、事実がその内容と一致するような話はまったく不思議としかいいようがない。ここに書いた話は、それが二段重ねになっている。聞いていてその話は事実かいなとつい疑ってしまう。

七田眞先生と母親

幼い頃、外で遊んでよく怪我をした。いつもどこかすりむいたり、ひっかき傷を作ったりしていた。そんなとき、僕の母親は「痛いの、痛いの、飛んでゆけ」と、傷に手を当てて言ってくれた。そんなことなど効き目はないと、大人の頭では理解するが、子どもの頭ではそれが事実になった。痛くないかのような感覚になる。または、本当の痛みだけを感じて、思い込みの部分が消えてなくなる。母に「痛いの、痛いの、飛んでゆけ」と言われるのが好きだった。

子どもにとって「信じられる」というのは大切なことだ。ところが最近の若い子供たちは、そういう迷信を知らない子が多い。きっと科学的に考えるよう教えられているのだろう。理詰めで考えた合理的なことが正しいこととなる。だけど人間は合理的なことだけでは生きていけない。たとえば「痛いの、痛いの、飛んでゆけ」は、子どもだからそれでいいと思っているような親から言われても効かないのではないかと思う。母が本当に子どもの苦痛を取り除くために、心から信じて言うから効くのであって、信じてない人から言われても効果はないと思う。七田先生が伝えようとしていたのは、人間の心のそんな部分だったと思う。

七田先生の業績についてネット上で「ニセ科学だ」とか書かれていると悲しくなる。確かに「痛いの、痛いの、飛んでゆけ」のようなことが科学的であるはずがない。しかし、そういうことが信じられる人たちにはある効果があったのだと思う。

最近、梨木香歩の小説『西の魔女が死んだ』を買った。まだ読んでないのだが裏表紙に簡単な説明書きがある。

中学に進んでまもなく、どうしても学校へ足が向かなくなった少女まいは、季節が初夏へと移り変わるひと月あまりを、西の魔女のもとで過ごした。西の魔女ことママのママ、つまり大好きなおばあちゃんから、まいは魔女の手ほどきを受けるのだが、魔女修行の肝心かなめは、何でも自分で決める、ということだった。喜びも希望も、もちろん幸せも……。

「なんでも自分で決める」というのが大切なのだろう。こんなことを言うと不思議に思われるかもしれないが、高校で講師をしていて気づいたのだが、何が面白いのか言えない若者がいる。「面白いと言えば面白いが、面白くないひともいる」だからそれがどんなに自分は面白いと思っても、面白いとは言えない。「他人にとって面白くないかもしれないこと」が重大なことだからだ。そうすると自分の感情にも自信が持てなくなる。僕は学校で小説の書き方を教えているが、実はまったく別のことを教えている気が時々する。それは「自分の感情や感覚を信じてやり抜け」ということだ。

物語を書いていると大切なのは自分の感覚を信じて書ききることだ。書いている途中で自信を失うと、そこから急激に言葉が希薄になる。だから、僕の仕事の多くは学生たちにエールを送ることだ。そうやって何人かが書ききってくれる。

「自分を信じる」というのは科学的なことではない。信じている最中にその根拠はないからだ。「自分ならできる」となぜ言えるのか。それを明らかにするのは無理だ。やりきったひとだけが「できた」と言える。やりきるまではできるかどうか確証はない。なんパーセントのひとができて、なんパーセントのひとができないと、科学的データを持っていたら、自分がどちらに入るのかなんとも言えないのが科学だ。

七田先生は右脳の話や速読の話を通じて「いかに自分を信じるか」を伝えていたのだと思う。生まれたばかりの子どもに「この子はスクスクと育つ」と明言することは科学的なことではない。しかし、多くの母親はそういう信念を必要としている。自分の子どもが健やかに育つように、自分が無事にお産を済ませられるように、子どもが五体満足で生まれてくるように。子供を産むその刹那、科学的ではいられないのである。

小説『昴』を読んだ

このパーティーでいただいた小説『昴』を読んだ。

この小説を読みながらいくつものシンクロニシティを感じた、「マカリイ」に関してはこちらに書いたが、ほかにも「太一」「諸葛孔明」「月震」などに僕は響いた。

「太一」については先日読んだ吉野裕子女史の本に登場する。「諸葛孔明」というのはひさしぶりにあるイベントの内覧会で大島京子さんに会ったら、諸葛孔明がしていたという占術に話しが及び、そのことをいろいろと教わっていたのだ。「月震」は月が中空になっていて、表面で大きな振動を与えると、鐘のように響き続けるという話しだ。これはかつてその研究をするためにNASAから機材発注を受けた会社の人から話を聞いた。

どの話も僕個人に起きたことで、すべての人に関係あるわけではないが、小説『昴』はそのようなゆるい関係性を信じる人のために書かれた小説だと思う。ハリウッド映画のように観ている者、読んでいる者を結末に追い込む作品ではなく、縁(えにし)の妙を楽しむことができる人に許される仕掛けが凝らされている。

たとえば小説『昴』には紅白二本のスリップ(しおりのための細い紐)がついている。小説に二本のスリップは珍しい。しかも紅白だ。なぜだろうと思いながら読んでいると、小説の中にそのヒントのような話しが登場する。しかし、その話しもこの本の装丁とどう関係あるのか、具体的には明かされない。ニュアンスの網の目に読者は誘(いざな)われる。

谷村氏は作詞をするのでニュアンスにとてもこだわるのだろう。一言一言はごくありふれた言葉だが、いくつかの要素に支えられてある言葉が登場すると、その言葉はもとの言葉以上の意味を持つ。なので読み始めたときには面白さがよくわからなかったが、読み進めるうちにいろんなことが見えてきた。

『昴』 谷村新司著 KKベストセラーズ