「The Cripple of Inishmaan」を観て

Prayers Studio が主催で公演している「The Cripple of Inishmaan」を観てきた。

なぜ僕がこの芝居を見たいと思ったかというと、脚本がマーティン・マクドナーだったから。

マーティン・マクドナーがどういう人かを知っているのはなかなかの演劇通だと思う。僕は演劇通などではなく、たまたまある映画で知って印象に残っていた。その映画は「イニシェリン島の精霊」。アイルランドにアラン諸島と呼ばれる三つの島がある。イニシェモア島、イニシュマーン島、イニシィア島という。日本でも有名なアランセーターは、ここが発祥だ。その映画を見たとき、強く心を掴まれた。だから今回、Prayers Studio が「The Cripple of Inishmaan」をやると聞いたとき、ぜひ観てみたいと思った。

なぜそのように強く思うのか。その理由は僕の魂に深く刻まれていて、長い話になってしまうので、ここではその話はしないでおく。

まず、「The Cripple of Inishmaan」というタイトルを和訳してないのがクスッと思う。和訳したら、内容を誤解されて下手をしたら騒ぎになるだろう。

芝居って、演じられている内容が、見ている人によって違うものであることがある。マーティン・マクドナーはそのことがテーマの人だと思う。まあ、僕しかそうだと思わないかもしれないけど。たくさんの見方があるから。僕がそう思うのはもちろん「イニシェリン島の精霊」という映画を見たからではあるが、それ以外にも彼がアイルランド出身の両親からロンドンで生まれたということもきっと関係している。

そんな複雑な芝居を(まだどう複雑かは書いてないので多くの人には謎だと思うが、このあとに書いて行く) The Prayers Studio が演じるのだ。観ないわけにはいかない。

Prayers Studio は、稀有な演劇集団だ。劇団といえば、どうやって人を集めて多くの人に見てもらえるかを追求するものだが、彼らの追求の矛先は少し違う。彼らのは矛先は「いかに本物の芝居をするか」だ。6年ほど前、彼らのワークショップに参加させてもらった。その時の体験をここに書いた。

だから彼らの使う劇場はとても小さい。ほぼ目の前で演技をする。すると、彼らの細かい動作も、手の震えも、声の震えも、感情も、客席に丸わかりになる。だから俳優は、自分の気持ちを誤魔化すことができない。それをすると観客は容易に読み取ってしまう。自分の気持ちと向き合った芝居をされると、観客は芝居に深い没入を味わうことになる。大舞台でドタバタやる演劇とはまったく違う、アップの繊細な感情表現のシーンが多い映画のように精緻な芝居になる。

ここからは芝居の話をする。多少のネタバレがあるので、何も知らずに芝居に向かい合いたい人は、この先は読まないほうがいいだろう。

“「The Cripple of Inishmaan」を観て” の続きを読む

「将軍」がエミー賞18部門で受賞

「将軍」というネットドラマがエミー賞の18部門で受賞した。最多22部門、25ノミネートを果たしていたが、そのうちの18部門で受賞したそうだ。今わかっている範囲でいうと、ドラマ部門作品賞、ドラマ部門主演男優賞・真田広之、ドラマ部門主演女優賞・アンナ・サワイだそうだ。他の15部門も知りたい。

「将軍」は1975年に小説化され、1980年に日本語訳が完成した。同時に、NBCによってテレビドラマとしても放送された。リチャード・チェンバレン、三船敏郎、島田陽子、などが主演していた。そのドラマを短縮して、日本ではまずは映画として公開された。父が和訳本の監修をしていたので、一緒にその映画の試写会を見にいった。

当時は浪人生か大学生かくらいの年だったが、あまりいい印象はなかった。九時間のドラマシリーズを二時間程度にまとめたのだから、仕方なかったかもしれない。でも、日本人としての文化的違和感があったように覚えている。

今回の新しい「将軍」を全て見てみた。見事に日本人が感じるであろう違和感を訂正していたように思う。きっとその違和感をスタッフが総出でぬぐいさっていったのだろう。今回の「将軍」はそういう意味で見事だと感じた。

残念ながら1980年のドラマ版は見てないので正確にはいえないが、当時のアメリカ人が思う日本人でドラマが作られていたと思う。例えば愛の告白では、日本人ならああいう告白はしないなと思ったが、今回のドラマでは修正されていた。

素晴らしい作品に仕上げたスタッフの皆さんに拍手を贈りたい。しかも、それで欧米の人たちをも納得させるのだから、日本の文化的背景についてかなり理解してもらえるようになったと言えるだろう。

1980年はバブル真っ只中、表面的な日本人観が世界を覆っていたのが、いろんな人の努力できちんと理解されるようになって来たということか。

チェット・ベイカー没後30年

ジム・ホールと共演した『アランフェス協奏曲』をときどき聞いたが、チェット・ベイカーのことはほとんど知らなかった。ファンになったのはヒロ川島と出会ってから。川島さんはチェットと1986年の初来日の際に知り合いとなり、不思議な縁を結ぶ。

昨日、5月13日はチェットの命日。
毎年この日にはヒロ川島が「CHET BAKER MEMORIAL NIGHT」をおこなう。没後30年という節目にその音を聞きに行った。川島さんはただチェットのファンだからとMEMORIAL NIGHTをおこなっている訳ではない。

彼はチェットの楽器を譲り受けたのだ。

“チェット・ベイカー没後30年” の続きを読む