twitterでいつの間にか水を飲んだ日本人

『スーフィーの物語』という本があります。この本にはスーフィーたちが精神的成長を得るために伝承されてきた話がたくさん紹介されているのですが、そのなかにこんな話が登場します。

昔々、モーセの師のハディルが、人間に警告を発した。やがて時が来ると、特別に貯蔵された水以外はすべて干上がってしまい、その後は水の性質が変わって、人々を狂わせてしまうだろう、と。

ひとりの男だけがこの警告に耳を傾けた。その男は水を集め、安全な場所に貯蔵し、水の性質が変わる日に備えた。

やがて、ハディルの予言していたその日がやってきた。小川は流れを止め、井戸は干上がり、警告を聞いていた男はその光景を目にすると、隠れ家に行って貯蔵していた水を飲んだ。そして、ふたたび滝が流れはじめたのを見て、男は街に戻っていったのだった。

人々は以前とはまったく違ったやり方で話したり、考えたりしていた。しかも彼らは、ハディルの警告や、水が干上がったことを、まったく覚えていなかったのである。男は人々と話をしているうちに、自分が気違いだと思われていることに気づいた。人々は彼に対して哀れみや敵意しか示さず、その話をまともには聞こうとはしなかった。

男ははじめ、新しい水をまったく飲もうとはしなかった。隠れ家に行って、貯蔵していた水を飲んでいたが、しだいにみんなと違ったやり方で暮らしたり、考えたり、行動することに耐えられなくなり、ついにある日、新しい水を飲む決心をした。そして、新しい水を飲むと、この男もほかの人間と同じになり、自分の蓄えていた特別な水のことをすっかり忘れてしまった。そして仲間たちからは、狂気から奇跡的に回復した男と呼ばれたのであった。

『スーフィーの物語』 イドリース・シャー編著 美沢真之助訳 平河出版社刊 「水が変わったとき」

世の中には時々、これに似た状況が生まれることがあります。はじめにそれを体験したのは環境広告についてでした。かつて広告会社に勤務していた頃、日本にはまだ環境広告はありませんでした。そのことについて話をすると「日本ではそんな広告をやろうとする会社はない」と馬鹿にされました。ところが、それから一、二年後には環境広告がぽつりぽつりとおこなわれるようになり、いまでは当たり前になっています。

同様に僕が最近驚いていることは、「自分の気持ちをオープンにBlogに書いている人」が多くなったことです。かつてヒーリング・ライティングというワークショップをはじめた頃、自分の心の中のことを自由に書いて下さいと言っても、多くの人は「そんなことしたことがない」「人前で自分の気持ちをさらすなんてできない」と抵抗されたことがありました。ところがいまではみんなネット上で、偽名を使っているかもしれませんが、さらさらと書いています。世の中変わったなぁと感じます。以前は自分の思ったことを書くためのノートを持ち歩いているというだけで、変な人と思われました。いまでは落書き帳のようなものを持ち歩いている人はたくさんいます。

世の中は、意識の持ち方でやっぱり変わるのですね。

“twitterでいつの間にか水を飲んだ日本人” の続きを読む

原子力発電所を作り続ける理由は?

きっこのプログで上関原発のことを知った。

もっと詳しく知るためにはウィキペディアを見るといい。

放射性廃棄物の処理法がいまだに確立していないにも関わらず、どうして原発を作り続けるのか、理解ができない。数千年、数万年、ものによっては数億年ものあいだ、安全に管理し続けられるわけがない。しかも廃棄物の量は増えていく。

電力が足りないことを理由に原発を作り続けて果たしていいのだろうか。受験生が勉強し続けるために覚醒剤を打つようなものだ。そのときはいいかもしれないが、あとでツケがまわってくる。

科学技術の発展によって放射性廃棄物の処理法が必ず確立されるというが、それは眉唾ものだと僕は思う。それが可能になる理論があり、それを実現するために努力しているのなら可能性もあろうが、放射性物質の半減期を早めるような理論が果たしてあるのだろうか。僕は聞いたことがない。誰か知っていたら教えて欲しい。

地球上はどこも流動的だ。どんなに深く埋めても、地層ごと流れていく。数億年のスパンが必要な放射性廃棄物はいつか生物に影響を与えて巡ってくるだろう。それが怖ければ宇宙空間に出すしかないが、宇宙に送る途中で事故が起きたらもう終わりだ。

民主党は原発肯定なので、これからも作り続けられるだろう。原発肯定派はこれから起きてくる出来事に目をつぶっているとしか思えない。数億年のあいだ、安全に放射性廃棄物が保持されることを信じるのなら、もっと別のエネルギーの開発を信じる方が現実的だ。原発をどのように減らしていくかを考え始めない限り、いつまでたっても自分の首を濡れた革紐で絞め続けるようなことになる。革紐が乾かないように、せっせと水をかけ続けるしかない。

仕事がないのはいいことだ

「仕事がないのはいいことだ」なんて書くと、求職中の人やフリーターは怒るかもしれないが、がまんして最後まで読んで欲しい。人間はずっと、仕事をせずに済むためにはどうしたらいいかを考えてきたのだから。問題は仕事がないことなのではない。せっかくたくさんの仕事をしなくても世の中が回るようになってきたのに、仕事をしない限り生活するための糧を得られなくなっていることが問題なのだ。

僕が幼い頃、三種の神器というものがあった。「テレビ」「洗濯機」「冷蔵庫」だ。どの家庭もそれらを買おうと、父親は(当時は共働きは珍しかった)仕事に頑張った。三種の神器を買うことで生活の質が良くなるからだ。「洗濯機」があれば主婦の仕事のうち二時間ほどが別のことに費やせる。「冷蔵庫」があれば、毎日夕方に買い物に行かなくても、二、三日に一度で済むようになる。「テレビ」があれば、世界の状況がつぶさにわかる。そうやって家庭は現代化された。現代化はつまり、手間をかけなくても生きていけるという暗黙の教育だった。効率化されていることがいい。効率化されてないものはたとえ家庭だといえどもいいものではないという教育だ。

かつて流通業界では問屋というものがたくさんあった。どこの街にもお菓子問屋があり、そこに行けばお菓子を安く売っているが、そこでは店舗相手にしか商売をしなかった。時々一般の客も相手にしている問屋があり、わざわざそんな問屋に遠く訪ねたりもしたものだ。ところがいまは問屋というものはほとんどなくなった。流通の仕組みが簡素化されたからだ。同様に、いろんな業界でいろんな効率化がされた。その結果、かつては必要だった仕事がいまではかなりなくなった。口に出しては言わないが「淘汰されるビジネスはダメなビジネス。淘汰されずに繁栄するビジネスこそいいビジネス」と思ってしまう。淘汰される仕事をしていた人たちは、口を噤んで表舞台からは去っていく。

効率化されることによって働く人ひとりひとりの責任が重くなる。効率があまりにもいいために、何かひとつ要素が欠けると効率の悪さがゆがみとしてどこかに表れる。それを人は恐れてしまう。それをなくすために休むことすらままならない。

このようにして何が起こるかというと、仕事をしている人はたくさんの仕事を抱え、お金はあるけど楽しくなくなる。仕事をしてない人は収入がないので人生を楽しめない。多くの人が苦しむ状況に置かれてしまう。

そこで考えられたのはワークシェアリングという考えだ。しかし、これはあまりうまくいってないように思う。なぜなら、これをやると明らかに効率が落ちるからだ。

では、どうすればいいのか。

どんなに忙しくてもお金を儲け、たくさんのサービスを受けられる人になるか、さほど忙しくはないが余暇の多い人生を送り、サービスはほどほどでも我慢するという人生を送るか、選べるようにすることだろう。これを日本で実現するためには、日本人全員の頭の切り替えが必要になる。日本はかつてあらゆる分野でめざましい発展を遂げた。同じようなめざましい発展はあきらめる必要がある。国民総生産が世界で二位なんてことに誇りを持つのではなく、日本の文化が世界でとてもユニークなものであることに誇りを持つようになるべきだろう。

余暇の多い人のうち、何もしない人はささやかに生きていく中で喜びを見つけていく。余暇の多い人のうち、芸術やボランティア活動に身を挺する人には、もしかしたらささやかな、ときには素敵なご褒美がうまれるかもしれない。このような考え方を身につけていくことが必要だ。このような考え方を身につけることで、一年で何万人もの自殺者が生まれずに済むようになるだろう。

そして、できれば世界で一番幸福な国民であると胸の張れる状況を生み出していきたい。そのノウハウをほかの国に提供していくというのが日本のビジョンになればもっといいだろう。そのために何が必要なのか、余暇の多い人がいろいろと考えて発信していくのが良いと思う。もちろん忙しい人たちも、そのアイデアを提供してもらい、いろんなところで同等に議論ができる状況が大切になるだろう。

忙しく働き過ごす人生も、マイペースに働きユニークなものを生み出していくことも、そして、ささやかに社会と関わり、静かな人生を送ることも、それぞれに大切なことであると思える状況が必要になってくるだろう。

侘び、寂びの価値を尊ぶことのできた日本人ならそれが可能だと思う。

この議論は、もちろん穴だらけなのを知っている。多くの人がその穴をふさげるように、いろんな意見が、ネットやマスコミで議論の対象になるような時を待っている。