AI時代の教育について

これから先、AIが人間の文化に大きな影響を与えるでしょう。そのときに考えておくべきことをふたつ挙げておきます。

1.AIがすべての人類の生存をサポートするように作る。
現在のAIはまだ未熟ですから、これからどんどんとその出資者のために作られて行くでしょう。
つまり製作したり、そのためにお金を払ったひとの有利になるように作られて行く。
これは資本主義では当たり前のことです。
つまり、資本主義の根幹を変えないかぎり、AIは他の存在を脅かす存在にならざるを得ません。
こう書くと、資本家たちは「SFの読みすぎ」とか、「くだらない考え」とかいうでしょうけど、シンプルに考えれば、そうなることは明白です。
僕たちは「資本主義」の次の社会を考えなければならないのです。

2.「資本主義」の次は、互いに尊重し合う文化が生まれるような「モノの考え方」「感じ方」が可能になるようなものにする。
科学と同じく心理学や哲学が重要な学問になるでしょう。最近はとても哲学が軽視されているように感じます。「哲学」は実際の生活に何の影響も与えないというひとがいます。しかし、「そのように教え込まれているから」なのではないでしょうか? AIが本当にモノを考えるようになったとき、人間はその思考の筋に沿って生きるほかありません。いまのように国家競争、企業間競争、個人間競争の世界観のまま、AIが物事を考えて行ったらどうなることでしょう。そのようになる以前に、僕たち自身が他の存在とともに生かし合う文化とはどのようなものかを考えだし、その線にそってAIが育つように基礎を作らないかぎり、人間の多くはひどい目にあうのではないかと推測します。

1.2.のどちらにしてもとても大きな問題です。
Googleの創業者は当初「邪悪になるな(Don’t be evil)」というスローガンを持っていましたけど、それはついに破られたようです。
資本主義社会では「邪悪なものが勝つ」というのが、隠された金言なのでしょう。
それをどのように克服して行くかを考える哲学や、影響されてしまう人間についての心理学がきちんと発達しないかぎり、AIに人間は滅ぼされると考えます。
なぜなら、それはAIのせいではなく、AIの初期設定をする人間の考えを拡張するからです。
僕たちがまじめに取組まなければならないのは、この「互いに尊重し合う社会とは何か」を、現状よりさらに高めることなのです。そのための教育が必要であり、そのための哲学が必要であり、人間が育つときどのようなステップが必要なのかを明らかにして行くことなのです。

他の存在を攻撃しない

資本主義が崩れて、次の何かの主義が来るとき、おそらく「革命」とか言って、いままでの文化や存在を破壊し始めるひとが出てくるかもしれません。それは徹底的に否定しなければなりません。

僕たちがいまあるのは、過去の積み重ねによる影響を受けています。原始的な生命が生まれてそれが進化し、動物になり、人間が生まれたという過去がなければ、私たちは存在すらしませんでした。考えや主義も同じで、資本主義がなければいまのような豊かな社会が生まれなかったのは明白です。いってみれば、資本主義が次の社会のインキュベーションになっているのです。そのインキュベーションは、子供の教育にも必要となるものでしょう。だから、過去の価値観や考え方も、その時代にとっては必要なものであったことを認め、次のステップを進む僕たちの糧としなければならないのです。破壊してはもともこもありません。

いまの僕たちの価値観から考えても、とても醜猥なモノの考え方や、それに則ったひとがいるかもしれません。そのような場合、きちんとそのことについて考え、なぜそのような考えや文化が生まれてしまったのか、研究するべきです。たとえばオウム真理教の一団は、拙速に死刑にするのではなく、きちんと調べて、社会の何が彼らを生み出したのかを知るべきでした。

AIはすべてデータに基づいて判断して行きますが、偏ったデータ入力をすると、適切な判断ができません。いまの社会は適切な判断をするためのデータ入力をするのではなく、操作する人たちが有利になるためのデータ入力をしているようにしか思えません。そのような悪習をどのように改めるのか、どのように理想的なAI運用をするのか、考えないかぎり、僕たちの未来はないでしょう。

国会前の戦争法案反対集会2015.6.24

 

6月24日におこなわれた戦争法案反対集会がどんな具合なのか見てきた。そのときの様子は上の映像の通り。

永田町駅の出口1を午後五時頃に出て、参議院議員会館、衆議院第二議員会館、衆議院第一議員会館の前を歩いていく。歩道をふたつに分けて、議員会館側に戦争法案反対を訴える人々はいた。しかし、みんな整然として混乱はまったくない。警官の指示にみんな従い、いざこざのようなものはまったくなし。

「総理官邸前」の信号を左折して、歩行者用信号を渡る。バリケードがあり、警官が警護していた。

しばらくまっすぐ歩いていくとはじめてふたりの警官に呼び止められる。

「抗議活動の参加者ですか?」

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西郷南洲遺訓

毎朝書いている『日刊 気持ちいいもの』を、昨日は休み、今日は昼過ぎに出した。こう書いた。

チャンス
特定秘密保護法が施行され、
集団的自衛権の行使容認がなされた。
武器の輸出も可能になってしまった。
もうすぐ戦争になってしまう。
何年後かは知らないが、
このまま物事が進んでいくと
いつか戦争に巻き込まれてしまう。
そのことを自覚して
いろんなことを学ばなければならない。
目を背けていると逃げられなくなる。
多くの人がそのことに気づけば、
そのときはじめて
自立した日本になれるかもしれない。
国家vs国家で物事を考えていると
ミスリードされる。
この好機に目覚める人が
増えることを念ずる。
垂れ流される情報を鵜呑みにするのではなく、
正しい情報を探し求めよ。

『日刊 気持ちいいもの』だから、気持ちいいものを書かなければならないが、あまり気持ちいい話とは思えないが、書くべきだなと思って書いた。
そして最後の一行を書いて、続いてどう正しい情報を得るべきかを書こうとしたが、やめた。
僕自身、正しい情報を得られているのかどうかはっきりしないから。
最近、ネット上では、いろんなことが書かれている。それらの内容は、まったくでたらめのものもあるし、ある側面では正しいものもある。どんなに正しく思える文章でも、すべてが正しいかどうかは僕自身判断できないものがある。そしてそれを起点にして物事を考えたりもする。
僕はあれを知っている、これを知っていると、正しいと思われることをここに書くが、どうあがいてもそれは真理の一面でしかない。誰でも自由に表現ができるのはとてもいいことだが、多くの場合、それは真理の全体を表現することはできないし、僕の文章もそのようなものでしかない。

たとえば、安倍総理がめちゃくちゃなことをしているとここに書いたとする。あんなことした、こんなことした、だからどうにかしろと。しかし、あまりそれには意味がない。書きたい欲望はあるのだが、我慢している。それも真理の一面でしかないと僕は思うから。

ここからしばらく空想を書く。なんの根拠もないことだ。ただ、こういう見方もできるということ。

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