小説『昴』を読んだ

このパーティーでいただいた小説『昴』を読んだ。

この小説を読みながらいくつものシンクロニシティを感じた、「マカリイ」に関してはこちらに書いたが、ほかにも「太一」「諸葛孔明」「月震」などに僕は響いた。

「太一」については先日読んだ吉野裕子女史の本に登場する。「諸葛孔明」というのはひさしぶりにあるイベントの内覧会で大島京子さんに会ったら、諸葛孔明がしていたという占術に話しが及び、そのことをいろいろと教わっていたのだ。「月震」は月が中空になっていて、表面で大きな振動を与えると、鐘のように響き続けるという話しだ。これはかつてその研究をするためにNASAから機材発注を受けた会社の人から話を聞いた。

どの話も僕個人に起きたことで、すべての人に関係あるわけではないが、小説『昴』はそのようなゆるい関係性を信じる人のために書かれた小説だと思う。ハリウッド映画のように観ている者、読んでいる者を結末に追い込む作品ではなく、縁(えにし)の妙を楽しむことができる人に許される仕掛けが凝らされている。

たとえば小説『昴』には紅白二本のスリップ(しおりのための細い紐)がついている。小説に二本のスリップは珍しい。しかも紅白だ。なぜだろうと思いながら読んでいると、小説の中にそのヒントのような話しが登場する。しかし、その話しもこの本の装丁とどう関係あるのか、具体的には明かされない。ニュアンスの網の目に読者は誘(いざな)われる。

谷村氏は作詞をするのでニュアンスにとてもこだわるのだろう。一言一言はごくありふれた言葉だが、いくつかの要素に支えられてある言葉が登場すると、その言葉はもとの言葉以上の意味を持つ。なので読み始めたときには面白さがよくわからなかったが、読み進めるうちにいろんなことが見えてきた。

『昴』 谷村新司著 KKベストセラーズ

いのちは即興だ

一昨日、一冊の本が届いた。お世話になっている地湧社から、近藤等則氏の新刊「いのちは即興だ」だった。地湧社はなぜこの本を送ってくれたのか、不思議な感じがした。よくぞこの本を送ってくれたと思ったからだ。地湧社からは年間に何冊もの新刊が出るはずだ。そのすべてを送ってもらっているわけではない。年に一冊くらいだ。その一冊がこの本だったとはと驚いた。

近藤さんがかつて資生堂のCMに出ていたときに、強い印象を受けてレコードを買った。アルバムの名前を忘れていたが調べたら思い出した。「コントン」だ。近藤等則の名前を縮めて「コントン」。その音楽自体も混沌だった。それから一年ほどしてJCBのCMに出ているときに冠コンサートの打ち合わせで一度だけお目にかかった。それ以来、ずっと忘れていたが、2001年にダライ・ラマが提唱した「世界聖なる音楽祭」でひさしぶりに近藤さんの名を聞き、お元気なんだなと思った。

かつての近藤さんの音楽は岡本太郎の言葉、「芸術は爆発だ」を音楽で表現しているような前衛的な物だった。最近の音楽はどうなんだろうとYouTubeを探したら、もっと静かになり、その場のバイブレーションと共鳴するような音楽になっていた。「BLOW THE EARTH 近藤等則」で検索すると出てくる。

「いのちは即興だ」はあまりにも面白いので三時間ほどで読んでしまった。

近藤氏は京都大学工学部で学び、卒業して何になるかと考えたとき、一流企業からの誘いを目の前にして、企業に行ってもうまく行かないなと感じ悩んだ。そのとき「自分が死ぬときから今の悩みを見ればいいんだ」と思い、死ぬときに楽しかったと思えるのは音楽だと感じて、ミュージシャンになったそうだ。

ミュージシャンになると決めると「楽しむ側」から「楽しませる側」になる必要がある。ところが人を楽しませるための何物も自分のなかにはないと悟る。ジャズの一流ミュージシャンはみんな一流になるべき物語を持っている。さらに、黒人であるという歴史的な物語を背負うことで、その音楽に深みや流れを生み出している。

近藤氏は自分にはそのようなものがないと悩むが、自分が日本人であるからと、日本の求道者や絵描きの本を読んでいった。そこで見つけたのはアナーキーな生き方だった。そのおかげで黒人のミュージシャンに対するコンプレックスが抜けたと書いている。

僕と徹底的に違うなと思うのは、「いいと感じたらやってしまう」こと。僕はどうもぐずぐず考えてしまう。僕にはどうしても行きたい場所がある。しかし、そこにはなかなか行けない。「時間がない、お金がない……」

僕が会社員だった頃、当時F3000のドライバーだった黒澤琢弥氏がある酒の席でこんな話をしてくれた。

「俺はいまドライバーだけど、昔メカニックをやっていた。よく若いメカニックがどうしたらドライバーになれますかって聞いてくるんだけど、そんなこと聞く前にドライバーになるためのことをやっていきゃあいいんだよ」

当時の僕には響いた。それを今また思い出した。自由に生きていくには無意識を解放しなければならない。自分のいのちに忠実に生きるためには、その場その場の即興に乗るべきだ。そんなことを語りかけてもらった。

扇の奥義

今年は月次祭、祇園祭、ねぶた祭と、大きなお祭りを三つも見ることができた。どのお祭りでもどこかで必ず扇子をもらった。お祭りと扇子は付きものなのだろうか? と思っていたら、書店で吉野裕子(よしのひろこ)全集を見つけ、第一巻の最初に「扇」という民俗学論文が載っていたので買って読んだ。

普通であれば俗説ではないかと思われることを丁寧に調べて書いてある。全集を全部読んでしまおうかという気になってきた。それほど面白い。著者は50歳になってから扇について調べ始め、本を書き、六十歳を過ぎて東京教育(筑波)大学の博士号を取得すると書かれていた。

現在の神道は性的なことが隠されて、もともとの意味がわからなくなっているものが多いが、その本によれば、昔は陰と陽とその交わるところに神が降りてくると考えられていた。バリ島で教えてもらった価値観とそっくりなので驚いた。

沖縄の蒲葵(びろう)から話しが始まり、扇は日本が起源にもかかわらず、どのように作られたか、どのように使うかのしきたりなど、知っている人がほとんどいないということで、吉野女史は扇に関連する祭を調べて回る。すると沖縄を軸にして次第に扇の意味、神道のかつての形が現れてくる。

ここでは丁寧な説明はできないので、興味のある人は原文を読んで欲しいのだが、いくつもある扇と神との関係の話のなかで、なるほどと思ったのがミテグラの話しだった。まとめることに問題を感じるが、端的に書くとこうだ。

祝詞などに登場するミテグラという言葉を吉野女史は二種類の意味があるといっている。ひとつは「貴重な神への進献物」、もうひとつが「両掌に捧げられた神聖な神降臨の道が開かれるところ」だそうだ。桃の節句のお雛様が扇を両手で持っているが、あの形がミテグラで、そこが神への道の入口となると言うことだ。だとすればお祭りで扇を持つことの意味が明確になる。扇を持っていれば誰のところにも神はやってくる。両手の平で作ったくぼみが陰を象徴し、そのあいだにはさんだ扇が陽を象徴する。そこは胎児が生まれる場所であり、死んだ魂が帰るところである。

 

この本の中で三角形が象徴するのは母胎であることが示される。死んだ人がかつて頭に巻かれた三角の白い布は、死んで母胎に回帰することを示していたそうだ。

ところで、昨日たまたまテレビをつけたら、トンカラリンのことが放送されていた。トンカラリンは熊本にある遺跡。

詳しいことはここに書かれている。

http://inoues.net/ruins/tonkararin.html

ここを通ると幼い頃に見た夢を思い出したと茂木健一郎氏がBlogに書いている。その夢は参道を通ってきた記憶のようだとも書いている。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/10/post_819c.html

この遺跡のなかを通っていくと、途中、岩に三角がたくさん彫られているところがあるそうだ。その三角と吉野裕子女史が書いた三角は同じ物なのではないかと感じた。もしそうだとすると、やはりトンカラリンは胎内回帰の体験をさせるための装置なのでは?と、勝手に推測した。もしそうだとしたら興味がある。「胎内記憶」を出版して以来、その話しにはどうしても興味を持ってしまう。そのことと、バリ島、そして神道がつながるってのがいとおかし。

ニュピが疑似臨死体験をさせてくれることについていつか本にするつもりだが、それに神道も関わりがあるとすると、もっと面白いことになりそうだ。

バリと日本の文化の繋がりについて表すことになるのか、隔たった場所でも人間という動物が、どの地域にいても共通して持つ感覚として胎内記憶を見るのか、おそらく両方の要素が複雑に絡むのだろうが、明確にすることができたらいいのにと思う。