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綱淵謙錠、一字題の訳
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僕たちの直感は水のきらめき ゆらめくように浮かんでは消え
ユングの作った概念に共時性(シンクロニシティ)がある。その概念は東洋的思考から生まれることであることを「ビジョン・セミナー」という本で明かしている。
ヴィルヘルムの住んでいた地方でひどい旱魃がありました。何か月もの間、雨は一滴も降らず、事態は逼迫してきました。旱魃の悪霊を脅して追い払うために、カトリック教徒は聖歌を歌って行進し、プロテスタントは祈りを捧げ、中国人は神像の前で線香を焚き鉄砲を撃ち鳴らしましたが、どうにもなりませんでした。しまいに中国人が言いました。雨乞い師を呼んでこよう、と。そして、別の州から、干からびた老人がやって来ました。彼が要求した唯一のものは、とある場所に静かな小屋でした。そこに彼は三日間こもったのです。四日目には雲が雲を呼び、雪が降ることなど考えられない季節に大変な吹雪となりました。尋常ならざる大雪です。町はその不思議な雨乞い師の噂でもちきりだったので、ヴィルヘルムはその男を訪ねて、いったいどういうふうにしたのか訊きました。まったくヨーロッパ式にこう言ったのです。「人々はあなたを雨作り(レインメーカー)と呼んでいます。どうやって雪を作ったのか教えていただけますか」。すると、小柄な中国人は言いました。「わしは雪を作ったりはせなんだ。わしのしたことじゃない」「ならば、この三日間、あなたは何をしておいででしたか」「ああ、それは説明できる。わしは、ものごとが秩序のなかにおさまっているよその土地から来た。ここでは、ものごとが秩序からはずれておる。天の定めによるしかるべきあり方になっておらぬ。つまり、この土地は全域、タオからはずれているのじゃ。わしも、秩序の乱れた土地にいるがために、ものごとの自然な秩序からはずれてしもうた。だから、わしは、自分がタオのなかに戻るまで、三日間待たねばならなんだ。すると、おのずから雨がきたんじゃよ」。
村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。
今回の小説はいきなり主題の提示で始まる。あまりにもすぐに本題が始まるので「どうしたことか?」と思ったのだが、しばらく読むとその理由が読み取れた。『1Q84』で『シンフォニエッタ』を使ったように、この小説ではリスト作曲の『巡礼の年 第一年〈スイス〉』から「ル・マル・デュ・ペイ」という曲が主題として使われているが、その曲の形式を小説で追っているのだ。
こちらに書いたが、村上春樹の小説はたいてい、シンフォニエッタのようにすべての音があってはじめてその素晴らしさがわかるような、物語の複雑な絡まり方が面白さを生み出しているのだが、今回はその面白さは比較的単純に表現されている。だから、今回の作品に限って言えば、ストーリーを手短にまとめても面白さが伝えられるような物語になっている。
『1Q84』という物語は、主人公の行動だけをまとめただけでは、いったい何が面白いのかよくわからない。主題に絡む様々な細かな話が全体の面白さを生み出していた。それは『シンフォニエッタ』という作品にとても似ていた。『シンフォニエッタ』はそのメロディーだけ抽出して単音で演奏しても、何がどういい曲なのかよくわからない。単純でかつ面白味のないメロディーだ。ところが、メロディーに付随する音がすべて演奏されたとき、その音楽の豊饒さが見えてくる。それは『1Q84』の面白さに呼応していた。