綱淵謙錠『斬』新装版発売

親父が書いた小説『斬』が文春文庫から新装版として発売される。この作品で1972年上半期の直木賞をいただいた。何十年も経って新装版として出版していただけて、きっと親父も草葉の陰で喜んでいるだろう。

小説の内容は、“首切り浅右衛門”と呼ばれた山田家の、幕末から明治にかけての没落を描いている。時代が変わり、人の生き方が変わり、制度が変わり、その時代の人々がどうしていったのか。それがテーマだ。

親父はこの作品をきっかけに一字題の小説を書き続けるようになる。同時に時代に埋もれていった「敗者」をテーマとし「敗者の文学」を書き続ける。幼かった僕はなんでそんなことをするのかと疑問だった。だいたい小説はヒーローを描いた方が売れるだろう。失敗した話しより成功した話しを人は読みたいと思うはずだ。それなのになぜ親父は敗者のことばかり書くのか? 親父に質問すると「歴史は成功者の側からしか描かれない。それだと時代の真実はわからなくなるんだ」とのことだった。幼い僕にはわかったような、わからないような、そんな答えだった。

親父のおかげでいまだに自己紹介で名前を名乗ると、時々親父と何か関係があるのかと問われる。現在でもものすごく有名な作家ならまだしも、一般の人はほとんど忘れている親父の名前を覚えているのは、よほどの歴史小説好きか、かつての親父の呑み仲間か、でなければ会津か新潟の出身者だ。

会津の人たちに覚えていただけるのは『戊辰落日』という作品があるからであり、新潟の人たちに覚えていただけるのは『越後太平記』という作品があるからだ。会津は戊辰戦争において幕府側であり新政府に処分され、新潟は越後高田藩松平家がお家騒動で取りつぶされた。

事実としてこれらの事件が書かれている本や資料はたくさんあるが、親父の書きたかったポイントは、それらを敗者の視点から見るとどうなっていたかだ。その結果、敗者のある特定のグループの感情が作品の中に色濃く流れるようになる。敗者というものは社会的に口を噤まされてしまうものだ。その結果、残された怨嗟は心の底に深く沈んでいく。それを描くことで結果的に敗者の側にあった人たちには非常なカタルシスが生まれる。

親父はそれを意図してやっていたのだろう。幼い僕にはそんなことはわからなかった。親父は自分は流浪の民だと言い続けた。だから作品が売れるようになり、お金を手にしても、土地も家も、お墓さえも買おうとはしなかった。流浪の民で、戦後ずっと傷ついてきた自分にしか書けないものを書こうとし続けた。

親父は歴史小説家だから、もちろんまわりには歴史に登場する有名人の子孫たちがいた。しかし、そのような人たちと親しくなるような関わりを持とうとしなかった。なぜなら、そのような関わりを持つと、歴史小説に書くべき何かに関して、筆が鈍るからだ。

表現という物は残酷なもので、ある人物を描くのに〝いいひと〟とばかり書くわけにはいかない。闇の部分を書くことでしか現れてこないものがたくさんある。それは否定し尽くした先にはじめて現れてくる何かだったりする。否定し尽くした先にある何かがどんなに美しくても、それは前提に否定が含まれるからこそ現れ出でて来る。親父の小説はきれいごとだけで済まそうとする人にはとても読みにくいものだ。そんな作品がこの時代に復活するのは、この作品に今だからこそ現れてくる深い意味が込められてのことだろう。

日本はいま敗戦のまっただ中のように思える。勝者と呼べるような人はどこにもいない。震災に傷つき、原発に脅され、放射性物質にまみれて生きている。この本のあとがきに親父はこう書いた。

「わたくしはなにかにじっと必死に耐えている人々に読んでいただきたいのである」

日本人にジャズは理解できているんだろうか

村上春樹の『雑文集』を読み終えた。それぞれに面白い文で楽しく読めました。そのなかでひとつ『日本人にジャズは理解できているんだろうか』という文が心に引っかかったので、そのことについて書きます。

ことの起こりはブランフォード・マルサリスが日本にライブに来て、聴衆のあり方を見て、『日本人はジャズがわかってない』という発言をし、それについて村上春樹が論じたもの。村上春樹は表面的に起きた出来事からさらに一段高い視線を持ち込んできて、人種差別がどのように生まれるのかを感じさせてくれた。ジャズの話から人種差別の話に移行して行くつながりは、村上春樹の丁寧な説明を読まない限り正しくは理解できないと思うので、その部分をここで解説するのはやめておく。知りたい人は直接原文にあたってください。それを読んで僕の思い出したこと、感じたことを書きます。

  

これを読んで思い出したのは2006年のピース・キッズ・ワールドサッカー・フェスティバルのこと。八ヵ国十地域の子供たちが広島に集まり、サッカー大会をしたのです。イスラエル、バレスチナ、イギリス、アメリカ(ハワイ)、ボスニアヘルツェゴビナ、韓国、中国、沖縄、広島、川崎の子供たちが集まりました。そのときに練習のための最初の合宿所で男子トイレが異常に汚されたことがありました。大便がトイレのまわりにまき散らされていたのです。そのときは誰がやったのかわからず、ひどいことをする子がいるものだと問題になったのですが、大会のための二番目の合宿所に移ったとき、再び同じことが起こりました。一回目の状況は報告を受けただけでしたが、二回目の状況は直接自分の目で確かめました。大便用の個室の中で、便器の中はきれいなのにそのまわり、足の置き場などに大便がまき散らされていたのです。そのときにパレスチナに詳しい人が、もしかしたらとこんな話をしてくれました。「パレスチナでは水は非常に大切で、親から水は汚してはいけないと教え込まれた子がこれをしたのでは」と。

  

生きている場所が違えば常識が違うことは理解しているつもりでした。しかし、理解していてもそれがどのように現れてくるのか、具体的には知らなかった。本当にパレスチナの子が、水を大切にするためにそうしたのかどうかは結局はわかりませんでした。だけど日本にいただけではわかりようのないことが、いろんな出来事に影響を与えているだろうことがちょっとだけ理解できた。もしその話が本当だとしたら、そのパレスチナの子はどんな気持ちで用を足したのだろう?

  

『日本人にジャズは理解できているんだろうか』の最後にこう書かれています。
あるいは大げさなものの言い方になるかもしれないけれど、こういう小さななんでもなさそうな文化的摩擦を腰を据えて、感情的にではなく、ひとつひとつ細かく検証していくところから、先の方にあるもっと大きな摩擦の正体がわりに明確に見えてくるのではないか。そしてそれと同時に、日本という国家の中にあるアメリカとはまた違った差別構造の実態のようなものもひょっとして浮かび上がってくるのではないか。

  

ピース・キッズ・サッカーは現在ピース・フィールド・ジャパンと名称を変更し、イスラエルとパレスチナの青年たちを毎年夏に招待して合宿をしています。そこで起きることはとても些細なことばかりです。だけど、イスラエルとパレスチナの青年たちが、互いに理解するためにはきっと役に立っているのだと思う。その様を見て、日本の学生は、文化の違う人たちが互いに理解し合うこととはどんなことかに触れるのです。それに触れることで、日本という国の固有性を意識する学生もいるでしょう。

  

アフリカの難民キャンプで、集まってきた様々な部族が互いに理解し合うためにやったことのひとつとして、結婚式ではどんなことをするのかを話し合ったことがあるそうです。すると部族ごとにすることがあまりにも違うので、そのあと互いのコミュニケーションが楽になったそうです。違いすぎるので、とにかく話さないと何もわからないということがわかったから。

  

日本とアメリカなんて、互いによく理解していると思い込んでいるかもしれないけど、アメリカの地域によっての違いや、人種によっての違いなど、理解できてない些細なことがたくさんあるのだと思う。そして同じような食い違いが、本当は日本人同士にもある。

   

(実は、ここまでの文章は今年の二月に書いたものだった。それをPCに保存してBlogにアップするのを忘れていた。それをたまたま見つけた。アップしようとして、以下を付け加える)

  

僕は生まれてこのかたずっと東京で暮らしているから、田舎の生活がまったくわからない。村々でおこなわれるお祭りが素敵だなと思うけど、実際にそこにいる人がどんな思いでそれを継続しているのか、じっくりと聞かない限り理解できないんだろうなと思っている。

  

大震災ののち、原発はそれでも必要だと言う人がなぜそのように言うのか、僕にはちっともわからない。電力が不足したら困るだろうというのはわからないでもないが、そのために放射能汚染にさらされる可能性を抱えるのはもうごめんだ。その危険性を地方に押し付けるのもやめてほしいし、その危険性をお金で交換するというのもきわめて不快な行動だ。なぜそれほどに電力にこだわらなければならないのか、それを推進派の人たちに直接聞いてみたい。きっと十数年後、日本のがんの罹患率は上がるのだろう。でも、原発事故と罹患率上昇の関連性を示す証拠がないということで、うやむやにされるのではないかと心配だし、もしうやむやにされなかったとしても、害された健康はもう戻らない。

  

問題が生まれることで、それまで理解できていなかったことが理解できる可能性が生まれる。それが限りなく続く。

奇界遺産とラスコーの壁画

今年1月に『奇界遺産』という本が出版された。大判で3,990円もする写真集だ。これがなかなか僕の目を釘付けにしてくれる。

表紙もインパクトがあるが、内容もなかなか凄い。なかなか出会えない景色がどこまでも続いていく。「中々」なんか飲みながら夜長長々とこれと過ごすとなかなかいいと思うがいかがだろうか。

本来であれば本の中身をここで公開して読者と楽しみたいところだが、あまり派手にやると著作権に触れると思うのでパッと開いたページだけ一枚写真を載せます。

細かくてよくわからないページが出てきてしまいましたがご容赦を。

洞窟の中にある村、ブータンの男根魔除け図、直径34mのミクロネシアの島に住む日本人、巨岩の上にある住宅、地獄絵図のテーマパーク、神々の像で満たされた奇想の庭園、中華神話のテーマパーク、巨大龍の胎内を巡る道教テーマパーク、キリストをテーマとした遊園地、世界の果て博物館、世界に散らばる「珍奇」を蒐集した元祖変態冒険家の博物館、貝殻で作られた竜宮城(写真のページ)、世界八大奇蹟館、ミイラ博物館、アガスティアの葉、死体博物館、ボリビアの忍者学校、三万体もの人骨が眠る巨大な地下迷路、人骨教会、エリア51、7万人が聖母を目撃した聖地ファティマなど、世界の不思議なものや景色や人などをゴリッと撮影してある。

これらの写真を撮影した佐藤健寿氏はオカルト研究家を続け、ある疑問を抱いたという。それは「これ(オカルト)って本当に必要なのだろうか?」という疑問だ。こんなことに一生を捧げてもいいものか。この疑問にあのコリン・ウィルソンが『アトランティスの遺産』という本の中で答えてくれたという。

ネアンデネタール人が滅び、現世人類たるホモ・サピエンスが生き残ったのは、洞窟の中に獲物の壁画を描き、それを槍で突くという魔術的行為を行ったからである。

この一文のいったいどこがその答えなのか、一見しただけではちっともわからない。しかし、佐藤氏はこんな文を書いている。

壁画、すなわち<芸術>であり<魔術= オカルト>の始まりであるそれは、その時点において、いわば<究極の無駄>であったに違いない。岩に絵を描き、槍で突いてみたところで、お腹が満たされるわけでもなく、むしろエネルギーの浪費にしかならないのだから。最初に岩に絵を描いて槍で熱心に突いていた奴は、多分、仲間内から狂(猿)人扱いされたはずである。しかし結果的には、この絵を描くという狂気じみた行動を通じて、狩猟の成功がただの運任せから期待を伴う予知的なものとなる。やがてそれがある段階で自然の因果と同調し、制度化したものが、祈りや儀式となった。その結果、このホモ・サピエンスは儀式を通じて未来を想像する力(ヴィジョン)を獲得し、安定した狩猟の成功や、自然の変化に対応することが出来たから、現代まで生き残ったというわけである。つまりはじめは<究極の無駄>として生まれた呪術的想像力こそが、他の動物たちを押しのけて、生存と進化へ向かう道を切り開いたというわけだ。

無論、多くの識者達が口を酸っぱくして指摘してきた通り、青年期の悩みにコリン・ウィルソンは劇薬、すなわち<混ぜるな危険>である。しかし私はこのアウトサイダーならではの大胆な発想に、大きな感銘を受けたのだった。<芸術>と<オカルト>、一言でまとめると<余計なこと>には、実は人間を人間たらしめてきた謎が、もしかしたら隠されているのかもしれないのだ。確かに現代においても、人間だけがUFOやUMAを見るし、変な建築物やオブジェを作るし、見えないものを見えると言い、そこにないものを信じてみたりする。しかしこの事実をラスコーの逸話にたとえるならば、これは人類最大の無駄どころか、むしろ人類に与えられた最高の天賦である可能性すらある。つまり<余計なこと>、それは人間が人間であるために、絶対的に<必要なこと>だったかもしれないのである。

以上の試論を踏まえた上で、私は「現代のラスコー」を探すべく、旅にでた。世界各地を歩き、この<奇妙な想像力>が生み出した<余計なこと>を、ひたすら探し求めたのである。…

『奇界遺産』 佐藤健寿著 エクスナレッジ刊より

この前提に立つと、単なる奇妙な写真集が別の意味を帯びてくる。つまりこの写真集は、人間の想像力のカンブリア爆発を集めたものかもしれない。生命はカンブリア紀に多様性を究める。あとは淘汰され、進化しはじめるが、そこで残った生命は、淘汰されていった生命が存在したからこそ残れたとも言える。この写真集に掲載されたもののほとんどは恐らく文化としては淘汰されていくだろう。中には残るものもあるかもしれない。しかし、現代日本に生きる多くの人の目で見れば、奇異なものでしかない。カンブリア爆発で生まれた生命の多くが奇異なものであったのと同じだ。奇異であることは、生命力の発露として見ることができる。

この奇異なものたちを見ることで心の底が疼くのは、いったいなぜなのだろう? 命の底に横たわる大いなるチカラが共鳴しているようだ。

ところで、この本の148ページに登場する少女はどうも真鍋かをり嬢に見えてしようがないのは僕だけ?