死の修行

ちょっと前に『チベットの「死の修行」』という本を読んだ。かつてチベット密教はラマ教と呼ばれ、仏教とは別物という考えがあったが、なぜそのように考えられてしまったのかが、これを読むとわかる。日本の仏教とは確かにまったく違う。それは男女交合図を見るだけでも明らかだ。

日本では理趣経でさえ秘経とされていたが、理趣経とは比べものにならないほどのタブーが含まれている。ここでその部分を抜き書きすることはしない。なぜなら、その部分だけを取り出すと非常に不快なものになる。つまりこの本を読みこむためには、相当な修行を必要とするのだろう。その修行を経た上で、はじめて示される言葉だった。修行によって様々な言葉や存在の背景を作り、その上ではじめて知らされる内容だ。この本が出版されたのは間違いではないかと心配になるほど、危ない内容が含まれている。もし僕が、この本をはじめて読む仏教の本として手にとっていたら、きっと大きな誤解をしたに違いない。

だから、これから以降は、「真如による熏習」がどのようなものであるかを知る人、または知ろうとしている人にだけ読んで欲しい。それ以外の人たちを排除したいのではない。それを知らない人が読んだら誤解される可能性が高いからだ。残念ながらすべての人に「真如」や「熏習」について教えることは難しいし、時間がかかる。ご容赦を願う。それから、信仰を持っている人も読まない方がいい。信仰を持つことと、真実を突き詰めていくこととは別のことだから。なぜ別なのかはこの文章の終わりに書くが、そこまで読んで信仰の役に立つかどうかは保証できない。

僕の心の中は常にぐちゃぐちゃだ。それを言葉にすることでなんとか整理をつけている。しかし、その整理も一時的なもので、その時その場の話している相手に左右されるものだったりする。そして、それはある程度仕方のないことだ。その整理のつかない心の中を正しい方向に少しずつまとめ直したり、組み替え直すことが修行に他ならない。しかもそれは意識できる範囲だけではなく、無意識にも及ぶ。だから、以前通りの自分では、その修行はやり通せない部分がある。そこに入っていくのは自分の意志だけだ。どんなに他人に勧められても、自分の心がNoと言っていたら、そこには入っていけない。

『死の修行』で説かれるのは、徹底的な快楽だ。その快楽が肉体を通して宇宙に充溢していることが瞑想を通して感得される。その際に鍵となるのが性的な快楽だ。恐らくそれまで禁欲してきた修行僧にとってその快楽は、性的な情報のあふれた日本ではとても想像できないほどの大きな快楽と、非常な尊厳をもたらすだろう。そして、その感覚が死と結びつけられる。

ここから先は「正しいか、正しくないか」という視点だけでは理解できなくなる。

「死」は誰も体験したことがない。「臨死」はあっても、「死」は体験できない。だから、「死」については、ある信念を持つしかない。「死んだらどうなるか」について、たくさんの話しがあるが、どの話しもそれは死んだ人から語られたものではない。せいぜい「臨死」を体験した人の話だ。だから、どれほど考えたところで私たちは「死んだらどうなるか」を正しく知ることはできない。ならばどうするか。「死んだらどうなるか」についての信念を持つことだ。このとき「死とは恐ろしいもの」という信念を持った人は、死を恐ろしく感じ始める。同様に「死とは素晴らしいもの」という信念を持つ人には、死は素晴らしいものとなる。

ここに「信仰」と「真実」の対立が生まれる。「信仰」は死を素晴らしいと信じ続けることだ。それによって死を受け入れる。それは理性的なレベルではなく、無意識の領域も含んでのことだ。だから、ここに書いたように「真実」を究めることは、実は死を素晴らしいものとして十全に受け入れる準備にはなりにくい。意識のどこかに「これは僕が信じていることでしかない」という思いが生まれるだろう。信仰は、はじめの段階では、それを切り捨てることだ。感情も無意識も死を素晴らしいものとして受け入れるためには一毫の迷いもあってはならない。それを阿頼耶識に定着させる。

しかし、高僧は「真実」を窮めた上で「信仰」を他人に説き、自らは「真実」を知りつつも「信仰」のなかに入っていく。なぜなら「真如による熏習」を知識として知っているだけではなく、その状態に踏み込むことができるからだ。

ここに書かれたことがなるほどと理解できる人はぜひ「チベット死の修行」を読んでほしい。いろんなことを感じるだろう。

実際に僕は深い修行をしたわけではないので、ここに書かれたことは間違っているかもしれません。その場合はご指摘下さい。でも、言葉では指摘しきれないかもしれませんね。その労を執っていただけたらありがたいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

ライアル・ワトソンの遺作『エレファントム』

1994年にケニアに行った。『ひとりぼっちのケティ』という少女マンガの原作を書く取材のためだった。そのときのことはこちらに書いた。

その取材の際に現地のコーディネーターがライアル・ワトソンについて「あいつはインチキ野郎だ」と言っていた。「なぜ?」と聞いたら、「あいつは撮影のために現実を変えることをなんとも思ってない」と言うのだ。何か自然現象の映像を撮影するとき、あたかも自然に起きたことかのように位置を変えたりしたのだそうだ。その頃、僕はライアル・ワトソンの本が好きだったので、「そんなことはないだろう」という気持ちと、「それが真実だったら嫌だな」という気持ちのあいだを揺れて吐き気がした。

それから何年かして河合雅雄先生に会う機会を得た。そのときに何年間か疑問だったことを質問した。

「ライアル・ワトソンが書いている『百匹目のサル』の話しは本当ですか?」

ライアル・ワトソンの著書『生命潮流』に『百匹目のサル』についての有名な話しが書かれている。その元ネタが河合雅雄先生の研究だったのだ。ところが河合先生の本には確かにライアル・ワトソンが引用しただろう話しが書かれているのだが、『百匹目のサル効果』については何も書かれていなかった。

このときのやりとりの詳細はここにある。

つまり、『百匹目のサル』の話しはライアル・ワトソンの作り話だったのだ。

この話しがはっきりした頃からライアル・ワトソンは新作を発表しなくなった。南アフリカに帰ったという噂もあったし、「嘘ばかり書くから干された」という人もいた。そのあたりの子細を僕は知らない。

先日、本屋に入ったら一冊の本が目に飛び込んできた。それはライアル・ワトソンの遺作『エレファントム』だった。さっそく買って読んだ。とても面白かった。象もクジラも興味のあることだったので、かつて調べた話しがいくつも出てきた。読みながら、どこが嘘でどこが事実か区別するようにして読んでいた。「嘘」と書くとちょっときついかもしれない。「創作」とした方が故人のためだろう。見事な創作がそこにはあった。その見事な創作(と思える部分)に僕は感動した。

ライアル・ワトソンは動物行動学の博士として本を書くのではなく、動物行動学博士の肩書きを持つ作家として本を発表すべきだったと思う。『エレファントム』に出てくる創作と思える部分も、あまりにも見事なので創作かどうかはっきりと断定できない。科学的に考えるなら「あり得ない」話しだ。しかし、現実としてそのようなことがあっても不思議ではないかもしれないと思えるように、ライアル・ワトソンは本のはじめから伏線を張り、見事な物語に作り上げている。

たとえそれが僕の考えているように創作だったとしても、僕はライアル・ワトソンの本が好きだ。生命科学を背景にして見事な物語を書き上げている。しかし、それを純粋な科学だと信じさせようとしていたなら、そこには問題があるだろう。

『エレファントム』の最後に出てくる逸話も創作だろうと思う。だけど、その創作を僕はとても素敵なものだと思っている。それがどんなものかは本を最初から読み味わわないとわからないだろうからここには書かない。とにかく僕には大変響いた。

『エレファントム』の中頃にこういう話しをライアル・ワトソンは書いている。

優れた追跡者と同じように、優れた科学者にも直観が不可欠だ。リーベンベルクはそれを「必要とされるはずの情報よりも少ない情報に基づいて、結論に到達する」と言い表している。そうした想像力による飛躍は科学というよりも呪術的に思えるが、実際に新事実を発見する過程ではこれがよく用いられている。本当に新しいものは、既成の知識だけでは見えてこないからだ。

既成の知識というものは、権威を帯びて教条的になることがある。絶対に正しいとされる事実や枠組みを作りだし、それらを議論の対象から除外する。多くの教科書は新たなアプローチの可能性を認めない。信じて飛躍することこそが本当の進歩につながるということを忘れている。

ライアル・ワトソン著『エレファントム』 木楽舎刊

ライアル・ワトソンも見たり聞いたりした事実から想像力による飛躍を何度もした。その飛躍に多くの科学者は反発を感じたのだろう。その飛躍をまずは「創作」という枠で提出するべきだったと思う。というか、そうして欲しかった。その飛躍が僕は好きだから。

「1Q84」を読んで

「1Q84」を読み終えた。簡単に書けば「面白かった」。しかし、何がどう面白かったかについては書くのに少々苦労しそうだ。こちらに書いたように村上春樹の面白さはうまく言葉にできない。様々な要素がからみついている。すべてを解きほぐすわけにはいかないが、僕にとって特に気になったことを書いてみよう。

村上春樹の小説は喪失の小説だと言われるが、作品の作り方は細胞の再生を思わせる。細胞は常に分裂し、死滅する細胞とのバランスを取る。何度も何度も繰り返しほぼ同じものを作りながら、現れる位置によって形を変える。村上春樹の作品はいつも同じようなことを書きながら、その位置によってすこしずつ語るべきことを変えているような気がする。環境や時代や、村上春樹の立場が変わることで自然と語るべきことが生まれているということだ。だから彼の作品は常に似た雰囲気を維持し続ける。村上春樹ほど書いている内容が変わらない作家は少ないのではないだろうか。どの物語も表面上は別のものだが、骨の部分はあまり大きく変わってないような気がする。

こう書くと、僕が村上春樹はいつも同じことばかり書いていて「ダメ」だと言いたいのではないかと思う人がいるかもしれないが、逆である。だからこそいいのだ。

画家というものは、自分の筆致を求めて求道する。作家は文体を求めるのかもしれないが、村上の場合は言葉にできないある雰囲気を何度も繰り返し作り込んでいる気がする。これはもちろん僕の思うことで、本人がそう考えているかは知らない。その言葉にできない雰囲気がどの作品にも生まれることが村上春樹のすごいところだと思う。さらにもちろん推測だが、村上春樹はそれを意図的に何度も繰り返そうとしているのではないかと思う。

村上春樹はマラソンやトライアスロンをするという。走り続けることで繰り返しの強さをからだに刻み込んでいる。その感覚が作品に出てくるのだろう。「走ることについて語るとき僕の語ること」にこんなことが書かれている。

 新潟から車で東京に帰る途中、車の屋根に自転車を積んだレース帰りの人びとを何人か見かけた。よく日焼けした、いかにも丈夫そうな体つきの人々だ。トライアスロン体型。僕らは初秋の日曜日のささやかなレースを終え、それぞれの家に、それぞれの日常に帰っていく。そして次のレースに向けて、それぞれの場所で(たぶん)これまでどおり黙々と練習を続けていく。そんな人生がはたから見て—-あるいはずっと高いところから見下ろして—-たいして意味も持たない、はかなく無益なものとして、あるいはひどく効率の悪いものと映ったとしても、それはそれで仕方ないじゃないかと僕は考える。たとえそれが実際、底に小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力をしたという事実は残る。効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。

この考え方が恐らく小説にも反映しているのだろう。

僕が好きなミュージシャンにマイク・オールドフィールドがいる。映画「エクソシスト」のテーマ曲となった「チューブラーベルズ」を作曲した人だ。映画のイメージだと怖い感じがするが、オールドフィールドは「チューブラーベルズ」を「愛を表現するために作った」と何かのインタビューに答えていた。そのチューブラーベルズを彼は五回も作り直している。

「チューブラー・ベルズ」

「オーケストラル・チューブラー・ベルズ」

「チューブラー・ベルズⅡ」

「チューブラー・ベルズⅢ」

「チューブラー・ベルズ2003」

「チューブラー・ベルズⅡ」を作るために、彼はレコード会社を移籍までしている。「オーケストラル・・・」は交響楽団を使って録音した。「Ⅱ」と「Ⅲ」は非常に似ているがメロディーや伴奏が少しずつ異なる。「2003」にいたっては、最初のバージョンとほとんど同じだ。しかし、よーく聞いていると時々違う部分が耳につく。最新作の「Music of the spheres(天空の音楽)」でもそっくりのメロディーが顔を出す。サイトを見てみたら、もうすぐまた別の「チューブラー・ベルズ」がリリースされるらしい。

オールドフィールドが「チューブラー・ベルズ」を繰り返し作るのは「売れる」という理由からではない。もしそうであるならレコード会社を移籍することはなかっただろう。これほどまでに同じ作品に執着するのはきっと彼の中に何か理由があるのだろう。それが何かはわからないが、作り直すたびに、きっと何かが満たされるのだろう。そして、バージョンごとに現れる微妙な違いに、大きな意味があるのではないだうか。

村上春樹の作品は「チューブラー・ベルズ」よりずっと変化がある。同じ物語を何度も書き続けているわけではない。しかし、同じ骨を何度もなぞっている感じがする。たとえば「1Q84」の形式は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と同じだ。二つの平行する物語が次第に歩み寄る。「1Q84」の主人公が最初にデートし続けている女性とは会えなくなる。これは村上春樹の小説によく出てくるパターンだ。村上春樹は似たことを繰り返しながら、何かを探っているのだろう。走ることのように単調な繰り返しをすることで、どこか別のところに崇高なものが築き上げられる。その別なところとは、読者の心の中だ。村上春樹の作品をたくさん読めば読むほど、その繰り返しが読み手の記憶にすり込まれた何事かを喚起して、面白いと思わざるを得なくなる。ジャズのスタンダードが聞き手の記憶を揺り起こすように。

「1Q84」は春樹ファンの心をかき乱す装置にあふれていた。

そのうちに「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」あたりの、明らかなオマージュかリフレインが書かれるのではないだろうか。僕はそれらを作品の発表とほぼ同時期に読んだが、その体験は感情を司るたくさんの忘れられた記憶のひとつとなっているため、そのオマージュかリフレインによってきっと心の底が震わされるのだろう。そのとき、僕は何を感じるのか、楽しみだ。