職業に貴賎なし

テイヤール・ド・シャルダンの全集がやっとそろった。7年かけて一冊ずつ集めてきた。これで念願の本が完成できる。やっと手にした第二巻を読んでいて、ふと思ったことがある。それを予備知識のない人にわかってもらうためには、かなりの文章を書かなければならないので、ここには書かないでおくが、それを考えていた際に「職業に貴賎なし」という感覚が必要になるなと思った。よく使われる言葉だが、その真の意味を理解している人は少なくなってきたようだ。「職業に貴賤なし」とネット上で検索すると、悲しい解釈がたくさん出てくる。いろんな解釈ができるだろうから、押しつけるつもりはないが、かつての日本ではこのような解釈だったと思う。

どんな職業でもかならずそれは誰かの役に立つから職業として成り立っている。そして、そのことの価値はそれによって得られる報酬とは関わりない。自分の仕事とのスタンスで価値は決まる。

現代の人は、貴賤の価値判断を収入に結びつける。そこが違うのだと思う。たとえば、どんなに収入の低い仕事でも、それがないと多くの人が困る仕事というものがある。それをしている人は、収入が少ないことを覚悟の上でそれをやっている。そのような人たちをもし収入が低いから劣った職業だというなら、その人たちはその仕事への意欲を失うだろう。低い収入にもかかわらず、その仕事をすることによって社会に貢献しているのだ。だから価値がある。現代はとても個人主義的な価値判断しかされなくなったが、「社会」という切り口から物事を見れば、どのような形にせよ社会に貢献している職業であれば価値があり、それは誰かがしなければならない。だから職業に貴賎はないのだ。

たとえば、現在漁業はガソリン価格の高騰で収入の少ない職業になってしまった。だからといって漁業をしている人たちの仕事が賤しくなったわけではない。たとえ収入が少なくなっても、魚を必要としている多くの人のために漁を続けるひとがいたとしたら、それは貴い仕事といえるだろう。農業も漁業も収入が少ないから賤しいという考えがあったとしたら、僕たちは食料を得ることができなくなる。同じように、どんな仕事でもそれがなくなると困る人が必ずいるはずだ。
人は仕事をすることで社会に貢献しているのだ。だから職業に貴賎はない。このような感覚は現代では「建前」としか理解されなくなってきているようだ。それは悲しいことだと僕は思う。