日本が解体されること

内田樹翁がBlogに朝日新聞に掲載した原稿を掲載している。そのテーマは『「国民国家としての日本』が解体過程に入ったということ』。かなり衝撃的だ。こちらを読めばどういうことかがわかる

すでに南米はかなり解体されている。もちろん政府はきちんとある。しかし、それは建前の政府であり、自国民のためにある政府とは質が違う。それを徹底的に排除しようとしたのがチャベスだった。チャベスは自国民のための政府を作ろうとしたが、その結果、ある程度の成果はあったが、道半ばで倒れてしまった。チャベスの行動をきちんと知ると、そら恐ろしくなる。もし日本の首相が日本国民のためになるように働けば、ひどい目にあわされる状況なのではないかと。安倍首相が聞いたら「はっは」と笑って、「そんなことないですよ」と言うのが目に浮かぶが…。

南米がどのように解体されていったのか、それは『収奪された大地』に詳しく書かれている。もう古い本だが、きっといま売れるようになってきているだろう。日本の未来がどのようになるかが読み取れるからだ。どんなことが起こるのか、とても簡単に書くとこうだ。まずは議員や高所得者が優遇されるように制度が作られ、その利益追求の結果、国内の利益が海外に流出する仕組みを整備することになる。はじめのうちは議員や高所得者は潤うが、下支えがなくなればジリジリと追い込まれ、さらに多くの条件を呑まなければならなくなり、結果として国力はほとんど海外資本に持って行かれる。いまの日本はその地獄への入口に立たされているような気がする。

僕たちは敵はアメリカだと思わされているが、単なるアメリカではない。グローバリゼーションと効率化、そして「正しい利益追求」から生み出されるオバケだ。昔のように特定人物のせいにはなかなかできない。それぞれの立場で自己利益を追求していった結果がオバケのような状態になっている。

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ウブドでAKOちゃん

ニュピの前日、ウブドの交差点でブタカラのお祭りがおこなわれていた。一時間近く炎天下に立っていたので、木陰に入って休んでいたら、隣に怪しげな風貌の男が立っていた。リュックに「脱原発」と書かれていたので話しかけてみた。

「話しかけてもいいですか?」

「あ、ありがとうございます」

「原発の反対運動をしているのですか?」

「はい、さっきもそこで立っていたら警官がやってきて追い払われました」

「立っているだけで追い払われるの?」

「インドネシアでは脱原発を公で訴えると法律違反なんだそうです」

「なんで?」

「日本がインドネシアに原発を輸出しようとしていて、それに反対することを禁じているんです」

「そうなんだ。それでバリ島に来たの?」

「世界中旅してます」

「脱原発を訴えて?」

「はい、そうです」

「ホームページとかはあるの?」

「友達や仲間が作ってくれています」

「あなたのしていることをどうやって調べたらいいの?」

「ありがとうございます」

そういって一枚の紙切れを手渡された。

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心の内部被曝について

こちらに 「心の内部被曝」という概念について少し触れました。
http://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/p2620
書いてから一年以上経ったのですが、この「心の内部被曝」について少し丁寧に書きます。

普通内部被曝というと、放射性物質を体内に取り込み、それによって遺伝子損傷を受けてしまうことを言います。結果として癌となるわけですが、これと似たようなことが心にも起きるなと考えたのです。

現在の産業界(経済三団体、つまり日本経団連、経済同友会、日本商工会議所)は原発ゼロには反対だと明言しています。この影響がどう現れるかというと、まずその経済三団体に属している会社の社員は「原発ゼロを支持」できない雰囲気が作られます。しかし、実際にはそこで働いている人やその家族にも明確に反対だと考えている人がいるでしょう。そのような人たちはまわりの人(その会社に勤めている人たち)が「原発維持が必要」というので、心のどこかで「反対なんだけどなぁ」と思いつつも、そのことが言えなくなります。この些細な思いが心の内部被曝を生むのです。

本当は反対なのに反対できない。なぜなら「会社でのけ者にされたくないから」「出世に差し障るから」「臆病者と思われたくないから」などの理由があるでしょう。「原発ゼロにしたい」と思っているのにそのことが言えず、そういうひとは一生懸命自分を納得させるためにまわりに「原発はあるべきだよね」と言い回ります。その様ははっきり言ってかわいそうです。産業界のトップはたくさんのお金を授受する仕組みとして原発が必要なのです。もちろんたくさんのお金を回さないと、経営している会社の社員を養えないと思っているのですから、必死になるのは当然でしょう。しかし、短期間で考えればそれは大切な考えかもしれませんが、長期で考えるとまったくいいことではありません。いつ起こるかわからない原発事故の恐怖を無視し続けなければならないのです。その結果、意欲や自発的創造性というものが削がれていくでしょう。もっと言えば、エーリッヒ・フロムが唱えた「心の能動性」が失われるでしょう。このことを僕は「心の内部被曝」と言いました。
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