伝統模様の危機

クーリエ・ジャポンの12月号p.117に「バリ発祥の伝統模様が海の向こうで盗作扱い」という記事がある。

バリの銀細工職人のニョマン・スアルティ氏がアメリカで知的財産権の侵害で訴えられた。スアルティ氏の作った銀細工をバリからアメリカに持ち帰ったアメリカ人が訴えられ、一緒にスアルティ氏も訴えられてしまった。なぜならアメリカでその銀細工に施された伝統的模様を商標登録した者がいたからだ。記事ではバリ銀細工連盟のニュマン・ムディタ副事務局長が「職人たちは著作権に対する認識が希薄なのです」とコメントを寄せているが、これはどうしたものだろう。もともと伝統的に生み出され、伝えられてきた模様は、誰のモノという概念を持たないものだっただろう。その模様を再現するだけの技術と能力を持つものだけが再現できるモノであった。ところがコピーが簡単にできるようになり、技術も能力もなくてもとにかく最初に登録した者勝ちとなる文化は、バリの伝統的文化とはなじまない。これは日本の伝統工芸の考え方ともきっとなじまなかっただろう。早く登録した者勝ちという文化の伝播は喜ぶべきではないと思う。

バリの人たちもアメリカに対抗して商標登録するようになるだろう。そのことによってバリでのデザインのあり方、それはつまりそのデザインの詳細を復元できる技術を持つ者のみがそのデザインを使うことができるという暗黙の約束が失われるからだ。その結果、恐らく伝統的デザインは次第に失われていくだろう。商標登録できる新しいデザインを使った方が儲けられるから、新人のデザイナーはとにかく新しいデザインを争うようになり、それによって稼ごうとするからだ。

新しいデザインが生まれることは喜ぶべきことだが、伝統的デザインが失われることは悲しむべきことだろう。たとえば日本では古い歌が歌われなくなった。ミュージシャンは印税を稼ぐために新しい歌を次々と作るようになったからだ。僕が幼かった頃はカラオケのような便利なものはなかったが、人は集まると何曲かは一緒に歌える歌があったものだ。ところが、最近では少し世代が違うと一緒に歌える歌を探すのが難しい。

何年か前から浴衣が復活しているが、伝統的な模様を使ったものはほとんど見られない。恐らく着物メーカーもせっせとデザインを商標登録しているのだろう。

すべてのデザインが商標登録されていくと言うことは、ある民族が一緒に分け持つ文化や思い出が失われていくと言うことだ。

バリの人たちが時間をかけて育んできた伝統模様を勝手に盗んで登録するようなことを許さない考え方はできないのだろうか?

日本の伝統模様は、しっかり保護されているのだろうか?

そもそも特許とか商標登録とか、国によって違う物である。国と国が知的財産を取り合っていると言ってもいいだろう。取り合いには情報戦が大切だが、日本にはそのための備えがあるのだろうか? ないと困るし、取り合いの技術ばかりが発達しても困る気がする。武術のように、戈(ほこ)を止める技術は生まれないのだろうか。

英国美術の現代史とラナーク

「美術」という言葉は「art」のいい訳語ではない。最近とみにそう思う。「美術」という言葉がどうしても「美しい」ものを思わせてしまうからだ。特に最近の「art」は美しさから離れていっている。

先日、森美術館でおこなわれている「英国美術の現代史〜ターナー賞の歩み」を見てきた。ちっとも美しくない。しかし、「art」である。技巧を凝らした人工物なのだ。 だから「美術」と言われると混乱する。「art」と言われると心の片隅がとても落ち着く。

それぞれの作品は自身ではもちろん何も語らないが、見ている者が語りたくなる。つまり、語らせる装置になっている。

ターナー賞の作品はその生い立ちからして「鑑賞者を語らせる装置」として存在しなければならなかったことをプログラムから知った。ターナー賞は1984年から始まり、1990年に一年だけおこなわれないが、1991年からテレビ局と提携して復活する。そのことについてプログラム中の原稿「英国美術の20年」(リジー・ケアリー/キャサリン・スタウト)にこう書かれている。

ターナー賞がテレビ局「チャンネル4」と提携したため、作品は以前にも増して広範な市民の目に触れ、大手マスコミから注目されるようになる。これらは重要な意味があった。それまでの作品の多くは主要新聞やタブロイド判の記者たちからさんざん嘲られたり、疑いの目を向けられたりしてきたが、この頃からそれを打ち消すようにサラ・ケント、リチャード・ドーメント、そしてリチャード・コークなどの評論家が腰を据えて擁護にまわった。ターナー賞は現代美術を認知させ、美術とは縁のなかった人々の関心を惹きつけるうえで大きな役割を果たした。この時期には若手アーティストの得意とする自己宣伝、メディアを利用した作品の売り込みなどの事業家精神がターナー賞の方針とも一致して、入場者数も新聞記事の量も毎年のように増えていった。またそれが人騒がせなもの、物議をかもすものを待望する気分を世間に植えつけることになり、今日までその影響が続いている。

だからこそ余計にこの展覧会は何か言いたくなるような作品が多いのだろう。つまりこの美術展の作品はみんなボケている。鑑賞者のツッコミどころ満載なのだ。僕もひとつひとつの作品にああだこうだいいたいのだが、ここではそれを脇に置いておこう。

同じ頃にアラスター・グレイという英国の作家が書いた『ラナーク〜四巻からなる伝記』という小説を読んだ。本屋で本を見て読みたくなった。その本はとにかく分厚い。700ページ以上ある煉瓦のような本だ。その帯にはこのようなことが書かれている。

ダンテ+カフカ+ジョイス+オーウェル+ブレイク+キャロル+α……

『重力の虹』『百年の孤独』にならぶ20世紀最重要世界文学、ついに刊行!

奇才アラスター・グレイによる 超弩級百科全書的ノヴェル。

「グレイは現代英国作家の中できわめて貴重な存在、本物の実験家である。”正しい”英語散文のしきたりを大胆勝想像力裕に破ってみせる」デイヴィッド・ロッジ

「よどみなく流れる文章、奔放な想像力、半ば幻想、半ばリアリズム……文句ないの傑作」ガーディアン

「『ラナーク』は愛に満ちた鮮烈な想像力の賜物、小説の宝箱である」タイムズ文芸付録

「これほど素晴らしいデビュー作を読んだのはひさしぶりだ。ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』のスコットランド版という名にもっともふさわしい作品」イヴニング・タイムズ

実際に読んでいくと謎だらけだ。はじめの数ページはあまりにも平凡で、帯に書かれている文句に釣られてしまったかと後悔しかけた。ところが少しずつ現実が破綻し始め、意味がわからないところが現れてきて、しかもその意味を求めて先を読んでしまう。ずぶずぶと罠にかかってしまった。

まず最初の謎が「第三巻」から始まることだ。スターウォーズがエピソード4から始まったようなものだ。この第三巻は現実なのかファンタジーなのか微妙な味付けで終わる。そして次の第一巻は主人公が変わる。その主人公と第三巻の主人公の関係は明かされない。第四巻も読み、ついに一巻に戻ってくる。ここですべての謎が明らかにされるのだろうと期待するのだが、明らかにされたかどうかもはぐらかされる。

いったいこの小説はなに?

と言いたいのだが、なぜか読んで満足してしまう。3,500円と税金分のお金をかけ、何時間もの時間を読書に費やし、わかりかけた謎はなぞのままに放置されて、なんでそれで満足するのか? まったくもって不思議な作品だ。なんでこれで評論家たちが文句を言わないのか、理解できなかった。ところが「英国美術の現代史」を見て少し分かった。この作品もツッコミどころ満載なのだ。

本を読む行為が好きな人にはお薦めの本だ。しかし、ハウツー本とか、人生をうまく生きる本だとかいうような本ばかり読んで満足する人にはお勧めできない。明確な答えが何もないから。この作品も英国の「art」なのだ。細部についてああだこうだと語りたくなる。

「英国美術の現代史〜ターナー賞の歩み」