宮田選手は五輪に出場すべきか?

体操女子・パリ五輪代表の宮田笙子選手(19)が「喫煙と飲酒行為が発覚した」ため代表を辞退したという報道に、あまり興味は持てなかった。僕は宮田さんをまったく知らないし、体操に格別の思い入れもなかったから。

でも、このデイリー新潮の記事を読んで、違うなと思った。何が「違うな」と思ったかを書く。

そうそうたる有名人が「宮田笙子は五輪に出場すべき」とXに投稿してもネット世論は完全無視 謎を解くカギはビートきよしの投稿にあった

この記事の最後に、結論のようにこのように書かれている。

ネット世論は『政治家のほうが悪いから微罪の宮田選手を許そう』ではなく、『政治や飲酒運転など、馴れ合いだらけで全てをうやむやにする日本社会で、宮田選手の件だけは正義が実現した』と歓迎しているのです。ルールを破った人が正しく裁かれたと感じ、憂さを晴らしている状態だと言えるかもしれません」

デイリー新潮

確かにネット民の中にはうさを晴らすために「宮田選手の件だけは正義が実現した」と思う人もいたかもしれないけど、多くは違うのではないかと思う。

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複雑性と愛について考える

僕たちにはいま、いろんなことを考えるための時間を与えられた。何をどう考えるべきか? あまりにも考えるべきことは多いので、たった数週間で答えは出せないかもしれない。でも、何事にもトライは大切。

長い話になるけど、この話は最後には「愛とは何か?」につながります。愛について深く考えるための「ある側面」について書いていきます。興味のある方はお付き合いください。

複雑性が大切な時代だと言われる。なぜ複雑性が大切なのか? 前提がたくさん必要なのは知っているが、それを言い出すとなが〜い文章になってしまうからかなりはしょる。わからない人は質問してください。なんとなくわかった人はそれでよしとしてください。理論的に科学的に正しいことを求めていくと、きっと訳が分からなくなります。なぜそうなってしまうのかについては、またいつか説明します。

複雑性が大切なのは「僕たちがひとりひとりみんな違うから」。もし複雑性が大切だと気づけないと、僕たちは「ひとりひとり違う」ことを容認できないということになる。

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