七田眞先生と母親

幼い頃、外で遊んでよく怪我をした。いつもどこかすりむいたり、ひっかき傷を作ったりしていた。そんなとき、僕の母親は「痛いの、痛いの、飛んでゆけ」と、傷に手を当てて言ってくれた。そんなことなど効き目はないと、大人の頭では理解するが、子どもの頭ではそれが事実になった。痛くないかのような感覚になる。または、本当の痛みだけを感じて、思い込みの部分が消えてなくなる。母に「痛いの、痛いの、飛んでゆけ」と言われるのが好きだった。

子どもにとって「信じられる」というのは大切なことだ。ところが最近の若い子供たちは、そういう迷信を知らない子が多い。きっと科学的に考えるよう教えられているのだろう。理詰めで考えた合理的なことが正しいこととなる。だけど人間は合理的なことだけでは生きていけない。たとえば「痛いの、痛いの、飛んでゆけ」は、子どもだからそれでいいと思っているような親から言われても効かないのではないかと思う。母が本当に子どもの苦痛を取り除くために、心から信じて言うから効くのであって、信じてない人から言われても効果はないと思う。七田先生が伝えようとしていたのは、人間の心のそんな部分だったと思う。

七田先生の業績についてネット上で「ニセ科学だ」とか書かれていると悲しくなる。確かに「痛いの、痛いの、飛んでゆけ」のようなことが科学的であるはずがない。しかし、そういうことが信じられる人たちにはある効果があったのだと思う。

最近、梨木香歩の小説『西の魔女が死んだ』を買った。まだ読んでないのだが裏表紙に簡単な説明書きがある。

中学に進んでまもなく、どうしても学校へ足が向かなくなった少女まいは、季節が初夏へと移り変わるひと月あまりを、西の魔女のもとで過ごした。西の魔女ことママのママ、つまり大好きなおばあちゃんから、まいは魔女の手ほどきを受けるのだが、魔女修行の肝心かなめは、何でも自分で決める、ということだった。喜びも希望も、もちろん幸せも……。

「なんでも自分で決める」というのが大切なのだろう。こんなことを言うと不思議に思われるかもしれないが、高校で講師をしていて気づいたのだが、何が面白いのか言えない若者がいる。「面白いと言えば面白いが、面白くないひともいる」だからそれがどんなに自分は面白いと思っても、面白いとは言えない。「他人にとって面白くないかもしれないこと」が重大なことだからだ。そうすると自分の感情にも自信が持てなくなる。僕は学校で小説の書き方を教えているが、実はまったく別のことを教えている気が時々する。それは「自分の感情や感覚を信じてやり抜け」ということだ。

物語を書いていると大切なのは自分の感覚を信じて書ききることだ。書いている途中で自信を失うと、そこから急激に言葉が希薄になる。だから、僕の仕事の多くは学生たちにエールを送ることだ。そうやって何人かが書ききってくれる。

「自分を信じる」というのは科学的なことではない。信じている最中にその根拠はないからだ。「自分ならできる」となぜ言えるのか。それを明らかにするのは無理だ。やりきったひとだけが「できた」と言える。やりきるまではできるかどうか確証はない。なんパーセントのひとができて、なんパーセントのひとができないと、科学的データを持っていたら、自分がどちらに入るのかなんとも言えないのが科学だ。

七田先生は右脳の話や速読の話を通じて「いかに自分を信じるか」を伝えていたのだと思う。生まれたばかりの子どもに「この子はスクスクと育つ」と明言することは科学的なことではない。しかし、多くの母親はそういう信念を必要としている。自分の子どもが健やかに育つように、自分が無事にお産を済ませられるように、子どもが五体満足で生まれてくるように。子供を産むその刹那、科学的ではいられないのである。

流しの歌とダメな僕

新宿のゴールデン街にひとつ行きつけの店がある。そこは人気の店なので、行けばお客さんで一杯だ。カウンターにいるMさんがとても魅力的なのだ。

その店に必ず来る流しのおじさんがいる。ギターをかついでやってくるのだけど、とても下手くそだ。コードは適当、歌もうまくない。はっきり言って聞いていると苦痛になる。だけどそのおじさん、下手だと言うことをまったく意に介さずに歌い続ける。たいていその店がいっぱいだと、なんとなくみんな聞きたくないものだから無視してしまう。僕も困ったなぁと思いながら無視をしていた。無視されて出て行くときのおじさんの背中を直視することはできなかった。

ある日、僕と友達とふたりで行ったら、お客さんが誰もいなかった。Mさんと三人で飲んでいると、そこに流しのおじさんが来た。Mさんは「なんか歌ってよ」と言う。おじさんはよろこんで一曲歌った。そこで僕ははじめてリクエストしてみた。見事に下手なその歌を歌ってくれた。苦痛を通り越して笑ってしまうようなその歌。千円渡してありがとうと言ったら喜んでくれた。

世の中では、みんな自分の仕事の技術を高めて報酬を得ることに汲々としている。僕もそうだ。技術が高くないと報酬が得られない世界で生きている。しかし、ゴールデン街の流しのおじさんは、その対極にいる。下手だけど、それでもいいという存在の仕方をしている。それで商売をしている。なんかそういうことにすごく引かれた。なんかいいなぁと思った。

きっと「芸は高めなければいけない」と思っている人たちから見れば、そういう人に引かれる僕ってダメな人間なんだろうな。

あまり多くの人に読んでもらいたくない話

M社がアフラトキシンという物質が混ざっている事故米を、食べてはならないことを隠して転売してしまった。いわゆる事故米不正転売事件だ。この問題に関して、いろいろと考えていくと、どうしても「まぁ、そういうこともあるだろうな」という感覚にとらわれてしまう。そこが僕の弱いところだ。広告業界にいたとき、M社の事件を思い起こさせるようなことが何回かあったからだ。

たとえば、ひとつの例。

もう20年も前のことだが、広告会社に入って僕の最初の仕事は、テレビ局と合同でやるゴルフコンペの賭け金を集めることだった。A4の封筒の表紙にコンペに参加する人たちが競馬新聞の表のように紹介されている。

1枠 ・・ダイオー ◎ 前回のコンペでは最終ホールでつまずいた。しかし、実力はなかなか。

2枠 ハワウマ・・ ○ 前回おしくも二位。今回は優勝を狙う。

3枠 テケテケ・・ × 女性同伴でないとホールを回れないという弱点あり。

などなど

それをもって社内でそのテレビ局に世話になっている人たちのところに行って賭け金をもらってくるのだ。営業担当などはたいてい世話になっているテレビ局員に1,000円程度賭ける。なかには10,000円くらい賭ける人もいた。そうやって新入社員は社内を回ることで、何十人かの社員とテレビ局員との関係を覚えていくのだ。

もちろんはじめて回るときには自己紹介から始まる。

「はじめまして、新入社員のつなぶちと申します。今度××テレビとゴルフコンペをやるので、一口でも乗っていただきたいのですが・・・」

「ほう、新入社員か。部署は? 俺は○○社担当の△△だ。○○社は××テレビで何やってるか知ってるか? 提供番組が答えられたら一口乗ってやろう・・・」

「えーっと、確か土曜に○○○という番組があったように・・・」

「おーっ、じゃ一口は乗ってやろう。もうひとつあるんだが、それは?」

「えっ、、、、平日の昼の帯で○○○は違いましたっけ?」

「あれは他社扱いだ。減点だな」

「えっ、そんな」

「冗談だ。いいよ、ひとつ当てたから、乗ってやる。そのかわり○○社関係の面白い情報があったら必ず持ってくるんだぞ。それで貸しを帳消しにしてやる」

「はっ?」

「××テレビの□□部長には■■■という番組の時にかなり世話になっているんだ。だから□□部長に三口。そのかわり負けたらお前に貸しだからな」

「そ、そんな、、」

こんな調子だ。こうやって社内に顔見知りができて情報が回るようになっていく。「貸し」とか「借り」は半ばジョークだが、そのジョークを切っ掛けにして会話が回っていく。後日、この先輩から電話がかかってきて、「借りを返せ」という口実で仕事をもらう。たいていそれは無理難題だ。その無理難題をクリアすると「なんだ、お前もやるとできるじゃないか」とか言われる。

さて話しを本題に戻そう。当時だって、賭けゴルフが合法であったわけではない。しかし、なんとなく「それくらいはいいだろう」という雰囲気があった。しかも、賭けゴルフの集金のおかげで、社内に顔見知りがたくさんできた。みんながそのことを認めていたのである。もちろん、テレビ局も。ところが何年か前に森元首相が賭けゴルフをしたとテレビで猛烈に批判されたことがある。きっとこれでテレビ局内での賭けゴルフは御法度になったんだろうなと思った。(実際にはもっと前に御法度になっていたかもしれないけど)

話しのポイントは、20年ほど前、僕はもちろん賭けゴルフはいけないことだと知っていた。しかし、回りがみんなでそれをすることを楽しんでいる。新入社員はそれについて「違法だ」とか「やめましょう」だとか言えなかった。雰囲気に流されたのだ。ある地方とか、会社とか、あるレベルで閉じた社会にはそのような“雰囲気”というものが生まれることを会社に勤めたことで知った。

そこでM社。もちろん、M社のやったことはとんでもないことだ。だから内部告発があった。しかし、誰も正面切って「それはいけない」とは言えなかった。誰も会社からクビになどされたくないからだ。

「M社はいけないことをした」と批判するのは簡単だ。しかし、政府筋から大量の事故米の処理を頼まれ、名目を「糊」にしたが、実際には糊にはできず、M社はどうすればよかったのだろう? 事故米を買っただけでは赤字になる。

M社の肩を持つつもりはないが、よく考えていくと心が疼く。

「M社がいけない!」、以上終わり!!

としてはいけないような気がする。

政府筋の責任追及はもちろんだが、自分のなかにある「組織に流される性質」について、よく考えなければならない。