アネーカーンタヴァーダ

大正9年発行の世界聖典全集「耆那教聖典」を読んだ。

本の扉を開き、1ページ目に「耆那教聖典」と、きれいな枠囲いに書かれていて、次のページにただ一行「訳者 鈴木重信」とある。

その本の最後に「故鈴木重信君を憶う」という文があり、それが16ページにもわたっていた。

耆那教聖典には「瑜伽論(ヨーガ・シャストラ)」「入諦義経(タットヷ−ルター・ディガマ・スートラ)」「聖行経(カルパ・スートラ)」の三典が入り、付録として三典の注釈と「耆那教論」が入っているが、目次にはその文、つまり「故鈴木重信君を憶う」のことは書かれていない。

目次前に置かれた凡例にこのようなことが書かれていた。

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前世について書いてみる

前世というものがあるのかないのか、僕にはよくわからない。あるといえばあるし、ないといえばない。どのような立場から考えるかによってあったりなかったりする。
あるという立場からしばらく書いてみたいと思う。

僕のまわりの人には何度も話したが、僕はこんなことを思っている。

母が死んだ2004年、1月に母が亡くなり、3月にバリ島に行った。そこではじめてンガベンを見た。バリのお葬式である。壮麗な儀式だった。帰ってきてその年の旅を文章にまとめようと思い、さて何を書こうかと考えた。当時氷川台駅のそばにモスバーガーがあった。夕方、そのテラスに座り、モスバーガーにかぶりつきながら目の前の中古車屋さんと民家の隙間にある小さな空から夕焼けを眺めていた。すると、僕の内面で何かがスルスルとつながっていった。一度に全部がつながり、「わかった」と思った。このときの体験は不思議なもので、わかった瞬間に何がわかったのかはよくわからなかった。ところがわかったことだけわかったのだ。

何がわかったのか。
前世というものが、どういうものかの一面がわかった。

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2016年のニュピ

今年もニュピにバリ島に行ってきました。今回印象に残ったことは三つありました。

まずひとつは、日が昇る前にブサキ寺院に行き、入口で日の出を待って入っていきました。とてもきれいでした。アグン山が朝日に輝き、神々しい感じがしました。しかもアグン山の全容が見えました。滅多にないことです。

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