2009年11月1日(日)午後1時から『地球の未来への対話』を聞きに行った。以下に対話の内容を記す。ただし、会場には録音機材などを持ち込むことはできないとのことだったので、すべてメモ書きしたものをここに書き直す。そのためにかなり内容が抜けているし、メモが不完全な箇所はあとで補ったので、多少の間違いがあるかもしれない。ご容赦願いたい。
司会:尾中謙文:
日本の人たちは豊かさを指針に働いてきた。しかし、それが窮まり自殺者が年間3万人となり、無気力や貧困が蔓延している。コンピューターがたくさんの情報を与えてくれるようになったが、忙しすぎて心が不安定な人が増えたように感じる。そろそろ心の内と外の両方を考えるべき時代に差しかかっていると思う。そしてそれは私たちが失った大切な物事を思い出し、気づくべき機会でもある。ぜひこれからおこなわれる対話を契機として、幸せをつかむチャンスとして欲しいと思います。
今日は四つのテーマについて考えていきます。それぞれのテーマをパネリストひとりずつに受け持ってもらいます。四つのテーマは「地球」「環境」「生命」「心」です。
では、まずは「地球」のテーマで竹村真一さんからお話しを始めて下さい。
竹村真一:
三浦梅園の言葉に「枯れ木に花咲くを驚くより、生木に花咲くを驚け」というものがあります。僕たちの体の細胞は毎日のように生まれ変わっています。身の回りのものが生まれ変わるとびっくりしますが、それが自分の体の中で起きていることにはあまり注意を払いませんでした。それがやっと生きていること自体に驚ける時代になってきたなと感じています。お米たった一粒が実ることによって、たくさんのお米を作る。DNAによる自然の魔法です。その生命の魔法は負のエントロピーを生み出している。(普通エントロピー<乱雑さ>は増大する一方のはずなのに、生命は逆の方向に向かって進む) 太陽は大日如来のようにエネルギーを与え続けて、生命の多様性の曼陀羅を生み出し続けている。このエネルギーと多様性が生命のベーシックなデザインを与えてくれる。それを私たちは科学の窓を通してみることで、明らかにありがたいことであることがわかるようになった。この地球という星で起きていることが、とても貴重で、多くの星ではあり得ないことだということを教えてくれる。つまり科学は、いま私たちがいるこの状況をリスペクトする視点を与えてくれた。地球に対する尊敬と愛と謙虚さを与えるきっかけとなった。その意味で仏教と同じだと言えると思います。法王はどう思われますか?
(ここでダライ・ラマ法王は耳を指さし、聞こえないとジェスチャーする。しばらくイヤホンの調整をし、居住まいを整えて、マイクを自分に近づける)
ダライ・ラマ法王:
まず最初に言いたいことは、ここに来られてうれしいということです。日本のエキスパートのみなさんに囲まれて、こうして対話ができることは滅多にない機会です。
問題として提起していただいたことは英語で伝わらなかったので、ちょっと感じたことを話させてもらいますね。
日本は技術的、物質的発展がめざましく素晴らしい。しかし一方で多くの技術の発展した国では、その国民の心が不安定になる傾向がある。心の内と外とを考えると、物質という心の外に注目しすぎたために心の内に対しての注意が相対的に減ったのではないでしょうか。今こそ心の価値に注意を払わなければならない。だからといって心の外に注意を払わなくても良いというわけではありません。同時に環境にも注意を払わなければならない。心の内と外と両方を気遣うことのできる人へと国の人たちを教育していくべきでしょう。
1959年にインドに行ったとき(チベットからの亡命を意味する)、水はすべて飲めるものではないということをはじめて知りました。飲めない水があることを知り驚いたのです。それから科学者にいろいろと習いました。私たちは太陽や月に行って住むことはできません。この地球を守りつつ、ここで生きていくしかないのです。人口増は地球に対して害を与えました。しかし、私たちの意識を高めることで、必ずしも人口増が地球に対しての害とはならないようにできると思います。
環境問題はグローバルな現象です。それは全人類の未来に関わること。各国が国益を超えて協力しなければならない。しかし、各国の政治家はその国の利益を守ろうとするあまり、世界全体の利益が二の次になってしまうのは非常に残念なことです。
竹村真一:
地球の進化はいつの時代も生物によってもたらされました。いま人間は地球のCo-Creator(共同創造者)だと言えるでしょう。自然と人間を二元論のように対立要素としてとらえるより、一緒に協力して地球を進化させているCo-Creatorとして捉える方が有益だと思います。しかも、これからさらにそうなっていく準備が整ってきました。人間の消費するエネルギーのうち半分は自然再生エネルギーでまかなえそうです。ヒマラヤの氷河が溶け始め、中国、インドの人たちの水の供給が絶たれそうですが、それに対しても解決法が生まれるでしょう。ひとつの方法は雨を集めることです。雨は人間が必要としている全水量の80倍降ると言われています。
現代の子供は地球の未来について暗いことばかり言われています。環境が悪くなる、人口増加が問題だ、気候が温暖化するなど。デザインしなおすことで、再創造することで、素敵な未来が来ると言うことをこそ、次世代を担う子供たちに伝えていきたい。
ダライ・ラマ法王:
私たちも自然の一部です。自然と人間は対立していると思われがちですが、それは心でのとらえ方次第です。私たち人間は想像力で、テクノロジーで、様々なモノを作り出してきました。そのモノが地球を傷つけることもありました。その意味で人間はトラブルメーカーと言えるでしょう。しかし、私たちはこの地球の上に住んでいます。これ以上地球に損害を与えるわけにはいきません。智恵を使って良い方向に導かなければならない。他の人を助け、互いの能力を尊敬し、地球をいい方向へと引っ張っていかなければなりません。それは他の動物にはできないことです。人間は問題を生み出すと同時に解決もできることを心に刻まなければなりません。
尾中謙文:
では、ここで、テーマを「環境」に移行しましょう。星野先生お願いします。
星野克美:
これからの環境について考えるとき、もう人口は増やさない方がいいと思います。いままで物質を大量に消費してきましたが、もう生産を抑えた方がよいのではないかと思います。各国の首相たちから、国際会議などの席でそのような話が出ないのは不思議なことだと思いますが、ダライ・ラマ法王はどう考えますか。これからは限界の先の生き方を考えるべきではないかと思います。
ダライ・ラマ法王:
現在の世界には貧富の差があります。だから、全体を一度に縮小するのではなく、すでに発展しているところは少し抑え、まだ発展してないところに発展の機会を与えるような、差を縮める方策が必要でしょう。富める国の人たちはいろいろなことが過剰です。それを抑え、貧困にあえぐ人たちは豊にしなければなりません。しかし、それをどうやって実現できるのか、詳しいことを私は知りません。人口問題は確かに深刻です。それを乗り越えるために人を教育していかなければならないでしょう。仏教徒だからこういう訳ではありませんが、人口を減らすためにはお坊さん、尼さんを増やすのがいいかもしれません。(少しの笑いが起こる)
星野克美:
そうですね。経済を縮小するなら先進国だと思います。ところで、そのような状況を実現する方法として、仏教の考えを経済のシステムに組み込めないでしょうか? 実はこの考えは私のオリジナルではなく、すでに1970年にシューマッハが「Small is beautiful」という本で仏教徒の経済学について示唆しています。
仏教徒は生命を大切にし、余分なものは持たないのに、それで満足している。いまの私たちは食べるために生命を奪い、多くの余分なものを手に入れようとしている。人間は殺生しすぎていると思うのです。シューマッハは欲望を制限しながらも精神性を高めていく仏教のあり方をとても評価しています。そのあり方を経済に取り込むことで、当時の問題を乗り越えようと40年前に提案していたのです。この「Small is beautiful」の考え方による経済を作り出す必要があるのではないかと思いますが、法王はどう考えていらっしゃいますか?
ダライ・ラマ法王:
そうですね。ただ、世界的な宗教は多かれ少なかれそのような考えを持っています。だから必ずしも仏教に限ったことではありません。たとえばキリスト教の僧院はとても質素ですよね。そのような伝統がどの宗教にもあるのですが、それがうまく守られてないのです。それが問題なのです。経済学者ではないので経済についてはあまり詳しく語れませんが、生活にストレスがあることは確かなようですね。そのストレスが欲や不信などを増長させ、内的平和を乱すのだと思います。ですので、肉体的、心的によい状態を生み出していかなければなりません。
星野克美:
そうですね。自然破壊は精神の破壊から来るものだと私は思っています。2000年頃にイギリスの湖水地方に旅行しました。そこで日本とのあまりもの違いに驚きました。そこはワーズワースなどが自然を守るために買い占めたナショナルトラスト発祥の地だったのですが、そこの美しさに心奪われました。空港に飛行機で降りるときからその違いを感じました。日本では空港のそばには、山を削って作ったゴルフ場があるものです。ワーズワースが残した「人間の感動は自然から生まれる」という言葉の意味がわかったような気がしました。
レイチェル・カーソンも自然の美をたたえた言葉を残していますね。「センス・オブ・ワンダー」という。
自然に触れることによって人は同じ心を共有することが出来ると思うのです。同じようなことが日本にはないだろうかと考え、ふっと思いついたことがありました。それは「夕焼け小焼け」の歌です。
「夕焼け小焼けで日が暮れて」ここでは、一日が終わってもまた明日、新しく太陽が昇ってくることを示唆しています。
「山のお寺の鉦が鳴る」では、コミュニティがしっかり存在していることが伝えられています。お寺の文化が村人にしっかりと浸透しているんですね。
「お手々つないでみな帰ろう」では、友達とのつながりがしっかりとあり、今日は喧嘩したかもしれないが、帰るときにはまた一緒という深いつながりが歌われています。
「からすといっしょに帰りましょう」では、他の生物とのつながりが歌われてますね。都会ではカラスは嫌われ者ですが、この歌ではそんな感じは受けません。
(拍手が沸き起こる)
ダライ・ラマ法王:
私たちは多様な生命を尊敬しなければなりませんね。インドでは非暴力という考え方があります。日本には神道が自然を尊重していましたね。しかし、人間は力を得ることによって自然を支配できると思うようになりました。テクノロジーが力の拡張をもたらし、どんなことでもできると思い始めたからです。しかし、自然の威力にはかないません。
木はいろんな材料として使われます。人工的な街に住んでいると人間は新鮮なものを求めて木のようなものを欲しがります。盆栽や園芸などを通して自然に触れようともします。それはなぜでしょうか?
田舎で農作をしている人たちと、都会で豊かな人たちと、その心のどちらが落ち着いているのか、一度科学的に調べると良いと思います。
尾中謙文:
では、ここらでテーマを「生命」に移したいと思います。清水先生お願いします。
清水博:
私は生命の二重性についてお話ししたい。科学はいま変わらなければならないと思います。天動説が地動説に移行したように、パラダイムシフトが必要です。しかし、科学を否定するつもりはありません。扱う領域を拡大するのです。いままでは客観的なことだけを扱ってきました。それをこれからは主観的なことも扱えるように領域を拡大するのです。これはノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士がすでに言っていたことです。
2004年、中越地震で山古志村がつぶれました。救助隊は駆けつけて生きている人を探しました。それは科学の領域です。「生きている」人はたくさんいました。しかし、救助されたあと、そこで「生きていく」ことができなかった。多くの人が別の地域に引っ越し、そこに残ったのは多くが高齢者で共同体を維持できなくなっていた。そのようなことがこれから取り組むべき問題です。科学は「生きている」ことは解明できますが、「生きていく」ために何が必要かは、主観が含まれますから扱えなかったのです。私はそのようなことが科学でも扱えるようにと「場」の理論を確立させようとしています。我々と彼らがぶつかるとき、我々のことをよく知らないと地球の中でうまく生きていけないのです。我々と言うことがどういうことなのか、それを科学でも考えていかなければならないのです。
ダライ・ラマ法王:
苦痛というものは意識から生まれます。すべての行動は苦痛を生み出す可能性がある。心的なものと肉体的なものでは心的なものの方が重要です。肉体的な苦痛、たとえば苦しい運動は、とらえ方によってはリクリエーションになる。しかし、心的な苦痛を肉体的な快感に変えるのは難しい。つまり心の方が優れているのです。科学は外的なことに目を向けてきました。最近になって内的なことも研究するようになってきました。ハードサイエンスからソフトサイエンスへと移行し、いまではホリスティックなものへと転換しようとしている。これは素晴らしいことです。心や精神をも領域に含んだ総合的科学が生まれることに期待しています。
清水博:
「生きていく」ことと「生きている」ことがうまく翻訳されてないようですね。こういう話だと理解していただけるでしょうか。西洋科学では生物が利他的行動を取るとは考えません。ダーウィンは「生きている」ことだけを考え、進化について説きました。しかし、「生きていく」ことを考えると、そこには必ず利他という考えが生まれてくるのです。生命はほとんどみんな他の生命を食べるものです。つまり生命は他の生命に「贈与」していると言える。人間は自分一人で生きているように感じているかもしれないが、他の弱い生命も一緒に生きていないとじつは生きていけない。人間も生態学的循環の中にいるのです。1個のリンゴが木になったとします。それでさえも多くの生物がその木に関わらない限り実らないのです。だからこれを「大地の恵み」という。どんな生物も循環があるから生きていけるのです。
山古志村では人の循環が失われました。科学者は自殺しようとする人をチェックすることはできます。しかし、そこに「生きていく」状態をもたらすことはできない。「生きている」状態は医学で可能です。しかし、これからの問題は「生きていく」ことなのです。科学はなぜそのことに触れられないのでしょう。
(拍手が沸き起こる)
尾中謙文:
与えることによって生かされている循環について法王はどう思いますか?
ダライ・ラマ法王:
すべての科学は人の利益になってきました。これからさらに長く生きていくことを考えると、心より体を考えてきた科学が、体より心を重んずるようになるでしょう。時代が変化し、科学も変化します。これからは現実を見通していくために心や意識の領域にも目を向けるべきでしょう。肉体にも細胞の生死があるように、感情面にも二つのレベルがあります。創作的感情と破壊的感情です。これらふたつのバランスによってシステムが維持されます。(この部分、よく聞き取れなかったのでまちがっているかもしれません)
清水博:
「生きていく」ためには二重生命が必要だと考えています。人の体で言えば細胞のレベルと個体のレベルです。細胞が個体を作り、個体に循環するエネルギーが細胞にもエネルギーを与えています。つまり、贈与の循環が起きているのです。これを地球に当てはめると、そこで生きているものはみな贈与の循環の中にいるのです。贈与の循環でドラマが起きる。地球が舞台で生命が役者です。しかし、人間は贈与を受けるが与えてないのでその姿を失っているのです。目先の利益ばかり追っているので贈与していない。だからドラマの中でしか生きていけないのにドラマに含まれていないのです。結果として「生きていく」ことができなくなる。
尾中謙文:
では、ここで「心」のテーマに移りましょう。田坂先生お願いします。
田坂広志:
私たちは普通に暮らしていても宗教的感覚というものを、物事のとらえ方で可能にできると思います。たとえば、人との出会いを通して気づいていくことができる。今日こうして3000人の人と一緒に過ごすのは「ありがたい」こと。「It’s a miracle.」であります。67億人が生きていると言われるこの地球上で、どのくらいの人とめぐり逢い、心を通わせることができるでしょうか。それを考えれば、今日、ここで出会えたことは「ありがたい」ことだと言えるでしょう。隣の人とは今日、出会うべくして出会った人ではないでしょうか。それを知ることができれば、宗教的感覚というものが生まれてくるのだと思うのです。
ダライ・ラマ法王に提案があります。それは「宗教の中で最先端の科学を教えるべきではないか」ということです。
インフレーション宇宙という考え方があります。それによってビッグバンという概念が与えられました。その考えをそのまま子供に伝えるのです。宇宙は137億年前に何もないところから、何かがゆらいだ。そこで無数の宇宙が生まれる。しかし、その多くは泡のように消えていくのです。しかし、そのとき私たちのいるこの宇宙は奇跡的に残り、生まれることができました。それが地球を生み、私たちはこうして生きている。何かひとつ違ったらここにこうして生きていることすらできなかったのです。この宗教的な深い感覚を、インフレーション宇宙を知ることで感じることができるのです。
「仏教と科学の対話」の対話はdialogue。その語原は弁証法を意味します。つまり対立していることがひとつに統合されていくこと。宗教と科学が融合することを表しています。それは宗教の枠組みの中で最先端の科学を教えることではないでしょうか。
(拍手が沸き起こる)
ダライ・ラマ法王:
あるとき私はひとからこう言われました。「科学と宗教の対話をするのはいいけど、科学は宗教を信じてないから注意しなさい」と。しかしブッダは説法するときに「私の話を盲目的に信じるな」と言っています。調べて信じられるなら信じなさいと。科学は外的なもの、物質的なものについては進んでいます。しかし、心に関して現在の心理学は、仏教と比べたとき、幼稚園で教えるようなレベルに思えます。心について医学を修める人たちはもっと強い関心を持って学ばなければならないでしょう。現代の科学者は私たちと分かち合い、学び合うべきです。
ウィスコンシン大学のリチャード・デイビットソン博士は瞑想によって脳に変化が現れることを突き止めました。ほかにもチベット僧院で五年間の共同研究をしています。我々と近代科学の融合はもう始まっているのです。
私は仏教を三つに分けて考えています。仏教科学、仏教哲学、そして信教としての仏教です。
信教としての仏教は来世や他界など、信じるしかしようがないことです。これは仏教にまかせてもらうしかしょうがない。しかし、仏教科学、仏教哲学の分野は仏教者でなくても共同することができます。特に仏教科学は科学者と共同して、今後さらに密接な研究が必要になってくるでしょう。これによって内と外の科学が確立し、感情や心について多くのことを知れるようになればいいと思っています。
しかし、科学者というと多くの場合西洋の人を指すのですが、仏教文化を持たない人とこの仕事をするのは難しいのです。その意味でこの研究は東の人、特に日本の人とやるのがいいのではないかと思っています。かつて日本のお寺で科学の対話をしたことがあります。宇宙科学、脳科学、量子力学、心理学でした。
このように言うと、私が仏教ばかりを布教しようとしているように思われるかも知れませんが、そんなつもりはありません。それぞれの宗教がそれぞれに科学との融合を考えればいいと思います。仏教の場合は日本を相手に研究するのがもっともふさわしいと思うのです。
田坂広志:
これからは、「私とは何か?」を考えなければならないでしょう。自分の中に何人もの自分がいるということに気づいていかなければならない。無意識についてはあまりよくわからないが、西洋ではユングがすべての人は集合無意識でつながっていると言っていた。21世紀にはこのつながりがどのようなものか新たに問われている。地獄への道は善意で敷き詰められているという。ひとつひとつは善意でも、それが集まることで別のものになることがある。ではいったいどうすればいいのか。
メディアも大きな影響力がある。ニュースが無意識にどのような影響を及ぼすだろう。仏教には阿頼耶識、末那識など、心の深い部分の体系がある。仏教と心理学が結びつくことでグローバルクライシスが避けられるかもしれない。
137億年かけて宇宙が今を生み出したなら、これから行き着く先はいったい何か。仏教と科学の融合が私たちをどこに導くのかを知りたい。
(拍手が沸き起こる)
ダライ・ラマ法王:
意識のレベルにはいろいろあります。心のレベルを知るためには科学との共同が必要でしょう。ドイツの脳の専門家が、脳の統制器官はないと言っていました。細胞のコーポレーションによって機能している。ひとつの中心があるのではない。この考え方は仏教の考え方に近いものがあります。
人間にとって無意識は重要なもの。メディアはその無意識に影響を与えます。心の平和を生み出すためにメディアが果たす役割は大きいと思います。
田坂広志:
世界は危機的状況にある。しかし、次の世代にひどい状況を伝えるべきではない。我々の世界は問題を創りながら先に進むもの。それが希望につながる。新たな経済、ボランタリー経済、善意や慈悲の経済、贈与の経済が、インターネット革命によって生まれている。悪しきものが生まれると同時に、良きもののほうがより一層生まれている。
「病は福音なり」という言葉をみなさんに贈りたい。現在生まれている問題は、私たちが何かに気づくためのきっかけとして存在するのだから。
ダライ・ラマ法王:
20世紀の後半にはとてもいい変化があった。それは戦争は不可避ではないことを多くの人が知ったことだ。全体主義はほとんど崩壊した。まだ残っている国もあるが、平和が続くことで変わっていくだろう。イラク戦争には多くの人が反対をした。20世紀前半までは人々は戦争を支持したものだった。しかし、今は違う。政党もGreenPartyというものができている。日本にはまだないが、そのうちできるかもしれない。かつては精神と科学は別のもので相いれなかった。それが変化してきた。希望の兆候はたくさんある。しかしもっと努力しなければならないことも確かだ。
まず若い人を教育しなければならない。私たちはチャレンジし続けなければならない。常に新しい考えを受け入れることを伝えなければならない。ステージにいる先生方はそろそろ舞台からさようならしなければならない。これからは21世紀に生きる若い人が活躍するべきだ。20世紀には2億人の人が殺されたという。そんな古い概念にしがみつくのではなく、新しい考え方、心の持ち方を若い人に伝えていく必要があります。
尾中謙文:
そろそろ時間となりました。会場のみなさんからの質問を受けたいと思います。会場に建築家のエドワード鈴木さんがいらしています。エドワードさんからひとつ何か質問を投げかけていただけますか?
エドワード鈴木:
religion(宗教)という言葉には関係を結ぶという意味がありました。先端科学では物質があるのではなく、関係性しかこの宇宙にはないことが次第にわかってきました。数式には「愛」や「思いやり」が必要なのではないかと思います。そこでうかがいます。どうしたら早く効率よく思いやりや愛を世界に伝えられるのでしょうか?
ダライ・ラマ法王:
宗教には大別してふたつのものがあります。神のようなものを信じる宗教と、禅や哲学のように自己探求をしていくものです。神の存在を科学では証明できません。しかし、すべての宗教にcompassion(同情)というものがあります。どの宗教もこのコンパッションを高めようとします。しかし、コンパッションというものを信じない人もいます。このコンパッション、人間の思いやりを広げていかなければなりません。科学的に愛の重要性を解明し、それを伝えていかなければならないでしょう。崇高なことばかり考えるのではなく、世俗的なことも必要です。宗教にこだわる必要はありません。母親は子供を大切にします。これこそがコンパッションです。若い頃にはこのようなことがよくわかるものですが、人間は年を取り、独立心が生まれてくるとこういうことを忘れ、人を支配するようになってきます。愛や思いやりを示しているときの脳の働きを科学を使って明らかにし、その重要性を伝えてもらいたい。このままだと欲ばかりがはびこることになります。
人間がこのような段階に進化していくのは全宇宙的なことなのです。私たちがどのように生きるのか。欲を減らしてどう生きていくのか。それを若い人たちに教育し、人類がどのように平和な心を獲得するのかも伝えていくことで、いつかすべての人が欲の少ない、愛や思いやりの心で生きていける状態が生まれるのだと思います。
尾中謙文:
ほかの参加者の方どなたか。
参加者A:
私はお礼を言いたくて手を挙げました。ダライ・ラマ法王をはじめ、このイベントを生み出してくれた人みなさんにお礼を申し上げます。
先日、社長になれと命じられ、どうしようかと悩んでいました。ここに来たことで粘り強く会社を続けることを知りました。ありがとうございます。
参加者B:
希望とは何ですか?
ダライ・ラマ法王:
仏教的には希望は2000年続くと言われています。そのときが来ると世界が終わり、また新しい世界が生まれます。
一般的なことで言えば、この二、三世紀については、大いに幸せで思いやりのある世界を作っていけると思っています。一方で戦争や貧困、病などが存在し続けるのも事実でしょう。温暖化の中で生きていく動物もいます。地球は変化しているのです。この変化が希望を与えるきっかけとなるでしょう。変化は嫌だと思うのも、変化はチャンスだと思うのも心の作用です。心の外、つまり環境を変化させるのは簡単なことではありません。しかし、私たちは内的存在、つまり心を変えることでそのような変化に対処していくことができます。
このあとダライ・ラマ法王が壇上に立つ人すべてに白いスカーフ(カタ)を肩にかけ、終了する。
カタの白は思いやり、寛容を表し、肌触りのスムースさは穏やかさを表現しているという。カタはもともとインドの伝統から生まれ、中国製とのこと。ダライ・ラマ法王によれば「インド、中国、チベットの融合」を意味しているとのこと。
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とても感動的な対話だった。文字だけではなかなか伝わらないかもしれないが、次第に会場がひとつになっていくのを感じた。
もともとこのイベントを知ったのは、友人SKからの誘いがきっかけだった。このイベントがボランティアのように運営されているので集客を手伝ってくれというのが彼の頼みだった。そこでこのイベントの主催会社青山プランニングアーツの浦田さんに会わせていただいた。ダライ・ラマ法王がいらっしゃるイベントはたぶん集客ができるけど、プレイベントが難しそうなので手伝って欲しいとのことだった。そこで、私はメールマガジンやBlog、知人に対してはメールを送信して参加を呼びかけた。
このような経緯でこのイベントに関わることになった。第一回、第二回のプレイベントに参加し、その内容をこのBlogにアップした。その記事を今回の司会をなさった尾中謙文さんが読んでくださり、一度会いましょうと言うことでお目にかかった。記事も無償で書いたので「お礼がいいたい」とのことだった。お目にかかると話が楽しく、つい二時間もお話しを聞いてしまった。そのときこのイベントの経緯などを教えていただいた。
尾中さんは9年ほど前ダラム・サラに行き、ダライ・ラマ法王とまる一日一緒に過ごすことを許されたそうだ。その日は一日中いろんな質問を法王にしていたという。最近になって法王サイドから連絡があり、日本の科学者と対話する場を設けてくれないかと依頼されたそうだ。「なんで僕なんだろう?」と思ったそうだが、法王からのお願いと言うことで、謹んでその申し出を受けたという。
青山プランニングアーツの皆さんはきっとかなり苦労してこのイベントを実現させたことと思う。私がいつも連絡する浦田さんはその返信メールを夜中の二時、三時、時には四時にくれた。直接聞いたわけではないが、法王事務所との取り決めにより広告が出せなかったそうで、それだけでも大変だったと思う。しかも利益はすべて法王事務所の運営にあてますと、チラシなどに小さく書かれている。いろいろな意味で大きな苦労があったのではないかと思う。だから今回のイベントを実現した青山プランニングアーツの尾中謙文さん、浦田さんをはじめ、関わったすべてのスタッフに深く感謝の意を表します。素晴らしい対話イベントを企画運営してくださり、ありがとうございました。
プレイベントの内容