2000年5月、僕はメールマガジンにこんなことを書いた。
いきなり話は飛ぶけど、21世紀になると多くの人が悟りの道を歩み出すよね。いまでさえもうすでに瞑想が普通のことになりつつある。宗教もいままでの形をそのまま保つのは難しくなっていくだろう。日本人は長い間無宗教のように見えていた。でもみんな初詣には行くし、迷信を信じている。それに似たキリスト教圏の人たちが現れはじめているらしい。神は信じないけどX-Fileは好きみたいな人。宇宙や生命の神秘が暴かれれば暴かれるほど、自然の神秘は底の深さを見せてくれる。その底の深さを知った人はいままでの宗教では括れなかったある価値観へと進んでいく。その価値観はまだ姿を完全には顕してはいない。宗教学だけでも、記号論だけでも、トランスパーソナル学だけでも、民族学だけでも、生物学だけでも、物理だけでも表現できない不思議な価値観。
シンプルな表現にしよう。人類は宇宙の歌を聞き始めたのだ。宇宙の歌は完全な調和でもなければ、単なる混沌でもない。
仏陀は話をする相手の理解力によって話を変えた。そのことを仏教用語で方便と言う。人類は宇宙を知るために自分たちで方便を作ってきた。それが宗教であり、科学であった。人類はどんどんと宇宙に対する理解力を上げてきた。それに連れ方便もだんだんと高度なものとなっていく。そしてある時から方便を手放して、単に歌のようにして聞き出す。歌には意味が込められているようだが、必ずしも込められているわけではない。にもかかわらずその歌に感動することがある。
僕は宇宙は決して理解しきれないものだと思っている。どんなに理解しても、それは宇宙の一面でしかないと思うのだ。別の理解の仕方を宇宙は待っている。そんなことを多くの人が感じているだろう。もちろん宗教者も感じているはずだ。21世紀に宗教者たちは宗派を越えた連帯を生み出すだろう。それはそれぞれの宗派の終わりを意味するわけではない。人類が多くの視点を持つことを意味する。
インターネットが普及し、世界中が英語に支配されるというようなことを言う人がいるが、それは間違っている。言葉が違うと見えてくるものが違う。人類が多くの言葉を存在させればさせるほど、多くの視点を持つことができる。
ネットが発達して互いのプライバシーがなくなっていくと心配する人もいるが、プライバシーが失われるほどの多くの視点を正しく持つことによって人は互いの心を鏡とし、自分の心を知り始める。
素敵だね。ほかにもここに行くとたくさんの歌がある。聞くと良いよ。