救急車のアナウンス

氷川台駅のそばを歩いていたら救急車が通った。

「はい、救急車が通ります。危ないですからしばらくお待ちください。はい、ご協力ありがとうございます。しばらくお待ちください。そこのかた、歩道に上がってください。ご協力ありがとうございます」

「ん?」と思い、湧き出てきた違和感の正体を探った。

以前は救急車が通るとき、ほとんどアナウンスはなかった。あったとしたらこんなものだった。

「はい、救急車です。どいてどいて。そこあぶないよ。はい、どうも」

そっけもなにもなかった。救急車のアナウンスが丁寧になるのは良いことなのだろうか? 救急車が優先的に通っていくことの常識が失われているのではないかと疑ってしまう。以前のようなアナウンスをするとクレームでも来るのだろうか? 救急車がかつてのようなアナウンスができたのは、救急車には急患が乗っていて、もし少しでも遅れたら命に危険があるかもしれないという前提があるからだ。命より大切な物はないという前提共有があるからみんな救急車が来ると黙ってどいた。救急車の隊員もそれが当然と思っていたから「どいてどいて」ですんだのだと思う。ところがいまでは「危ないですからしばらくお待ちください。ご協力ありがとうございます」だ。まるで歩行者をお客様扱い。そこには人としての繋がりが失われている。命を救うため一刻を争うときに「どいて」では済まず、「危険ですからしばらくお待ちください」と言わなければならないとしたら、救急車に乗っている急患のなんと命の軽いことかと思ってしまう。

先日、平野復興相が「私の高校の同級生のように逃げなかったバカなやつがいた」と言ってメディアで叩かれていたが、あれも前後関係を考えれば、よほど仲の良かった同級生だったことが推測される。その仲の良かった同級生が逃げずにいたから「バカ」といいたくなったのだし、愛しい感覚がなかったら「バカ」とも言えない。その前提での「バカ」であろうと推測できる。でも、平野復興相の言葉にも少し微妙な点がある。それは「私の高校の同級生のように」の「ように」だ。これでは「バカなやつ」は高校の同級生ひとりだけとは感じにくい。逃げなかった人たちみんなを「バカ」と言っているように聞こえてしまう。 だけどわざわざ逃げなかったひとたち全員をバカ呼ばわりする必然性はないので、善意で解釈して「愛しい同級生をバカと呼んでいる」と僕は解釈した。

特定の関係性があるからこそ言える言葉がある。その特定の関係性をとても大切に扱うのが日本語だ。なにしろ古典では関係性だけで主語が誰だかわかったのだから。現代では主語を丁寧に入れて、誰もが理解できる聞きやすい言葉ばかり使うので、かつて明言されなくても把握できた関係性がわかりにくくなってきているのではないだろうか? その延長線上に、救急車のアナウンスの違和感が生まれるのではないかと推測する。もし救急車の隊員に丁寧な言葉を使わせようとする人がいるとしたら、その人は何を思ってそれを使わせようとするのだろうか?

しかし、視点を変えると別のことも考えられる。それは救急車の隊員が自発的に丁寧な言葉を使っている場合だ。「どいてどいて」では、歩行者のなかには不快になる人がいるかもしれないと思い、隊員が自発的に「ありがとうございます」と言っているのだとしたら、それはとても素敵なこと。違和感を感じてしまった僕の未熟さを知るばかりだ。

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