ソーシャルクロスアライアンスが主催したムハマド・ユヌス氏来日シンポジウムに参加してきた。
ユヌス氏はグラミン銀行を設立したことでノーベル平和賞をもらい有名になったが、今回のシンポジウムを聞いて、ユヌス氏は銀行を創設したかったわけではないことがわかった。そして、その話の内容にとても親しみを覚えた。
ユヌス氏はアメリカに留学し、経済学博士となって帰国。バングラディッシュのチッタゴン大学の経済学部長となった。ここまではよくある話。ユヌス氏のここからがすごいところ。
ユヌス氏は大学で経済学を教えていたが、あるとき自分がどんなに高邁な経済学を大学で教えても、現実の社会がちっとも変わらないと思い始める。そこで街に出て、市井の人たちにいろいろと話を聞いたそうだ。すると当時は独立後間もないこともあり、国の経済は疲弊し、一般市民がわずかな負債で一生借金を返し続けなければならないような理不尽な状況がたくさんあることを知る。そこで経済学博士として銀行に、貧しい人たちにも借金が正当にできるように頼むが、銀行は貧乏人に貸しても返ってくるあてがないと貸してくれない。そこでユヌス氏は、大学教授の自分が借りるのならいいだろうと、自分の名前で借金をし、それを事業を興したいがお金がなくて興せない人たちに貸し始める。ユヌス氏は自分でリスクを取った。すると借りた人たちはユヌスさんが困っては大変だと、期日通りにきちんと返す。次第にユヌスさんが銀行から借りる額は増え、貸す人数も増えていくと、銀行からの借金は飛んでもない額に膨らんでいった。その額がいくら大学教授でも個人では返しきれない相当な額になったとき、政府から認可を受け、特殊銀行となった。それが村落(グラミン)銀行だった。
この話を聞くまで、僕はユヌスさんのすごさが実はわかっていなかった。この話を聞いて心底すごいひとなんだと実感できた。ユヌスさんはきちんと「いまを生きている」んだなと。国や村の危機を自分事としてとらえ、それをプロジェクトにし、銀行にまでしてしまったのだから。
このシンポジウムでもうひとつ、なるほどなと思ったことがある。それは「日本はいじめの土壌でできている?」にも書いたが、僕たち日本人の会話が足りてないんだなと言うこと。
僕はソーシャル・ビジネスというものがよくわからない。こういうと若い人たちに「なんだわからないのか」と馬鹿にされそうだが、若者が思った「わからない」と、僕が思っている「わからない」の質はきっと違う。僕の年代ではソーシャル・ビジネス的感覚は当たり前だから「わからない」のだ。なぜことさら「ソーシャルビジネス」というのか? 利益の最大化のみを目指す企業とは違うと、違いを際立たせればなんとなくわかるような気がするが、日本の企業であればどんな企業も多かれ少なかれ社会のためになることをしている。そのさじ加減が少し違うだけだ。だとすると、どのようなさじ加減のときソーシャンビジネスで、どのようなさじ加減のときそうではなくなるのか、その境界がわからなかった。どうもその境は、創業者の宣言にあるような気がする。いまはソーシャルビネスに若い人が集まる。だから、ソーシャルビジネスですと宣言してPRしたほうが有利だからそのようにし、もともと創業時には苦労するのだから「社会のために僕たちは苦労しています」とアピールすることでアドバンテージを得ている企業もあるだろう。いっぽうで一流企業には、かつて日本人が持っていた「陰徳を積む」という感覚があるので、いいことをしてもことさらそれをPRには使わない。
ユヌス氏もソーシャルビジネスの会社が利益を上げるのはいいことだと何度も言っていた。そして、利益を上げながらその一部を社会に還元したり、社会の変化に役立たせたりするのがソーシャルビジネスだと。だとすれば、日本の一流企業の多くがそれをしている。だから100年以上続く企業がたくさんあるのだろう。谷崎テトラさんから聞いた話だが、世界中から100年以上続く企業を集めると、その50%は日本の企業なのだそうだ。その理由もここにあるのかもしれない。リオの環境サミットに参加していた日本の企業の大半も100年以上続いている企業だったそうだ。しかも、ユヌス氏のシンポジウムの基調講演をした舩橋晴雄氏によれば、1400年以上続いている会社も日本には5,6社あるという。
だとすれば、若者がソーシャルビジネスを圧倒的に支持する理由は何か?
日本の企業が持っていたソーシャルな部分が、きっと失われつつあるのだろう。それは若者の雇用形態を見れば明らかだ。いまの企業からは「社会のためにひとを雇う」という感覚が失われている。「すでに雇っているひとの食い扶持を探すだけで大変」なのだから。そのことに企業の人事関係者は苦り切っている。社会のためにひとを雇いたいが、現実にそれができなくなっている。
さらに、かつて日本企業にとってソーシャルなことは当たり前のこととしてやっていたと、誰も若い人に伝えない。きっとその根底には、現在の経済状況の負い目があるので言えないというのもあるだろう。
基調講演をした舩橋氏の話にまったくその通りだなと感心してしまったのでその概略を以下に書く。いつものようにメモの走り書きをあとで再現しているので細かいニュアンスなど違っているところがあると思うけど、ご寛恕を。
ユヌス氏の思想の根底にあるものは、多くの日本人が共通に持っている感覚にとても近い。欧米では企業は利益だけを追求すればいいと考えていた。しかし、日本の企業でそれをやると多くの社員は「これが本当の人間の在り方か?」と思うものだ。では日本人はどう考えてきたのか。大きく捉えると次のようだ。
1.働くことの意味を考える
日本人は働く際に利益だけを上げるのではなく自己実現の喜びを見出そうとする。だからこそ商品やサービスの質が高くなる。大坂の陣で徳川方につき、武功を上げて旗本となった鈴木正三(しょうさん)は、42歳で出家する。正三は在家の教化のために仮名草子で仏教について書く。そのなかの一冊、『萬民徳用』にこのようなことを書いている。
「仏の教えは特別なものではなく、広く世のためひとのためを考え、毎日自分の仕事に精を出すことが仏の心につながる」
「人間は本来善悪を判断できるものである。しかし、どんな善人も完全に善人ではなく、どんな悪人も完全な悪人ではない。どんなひとにも貪癡瞋(とんちじん)の三毒があり、満月のように円満にはなかなかなれない。
(「貪 貪欲であること。 癡 愚痴。無知の心。 瞋 怒り)
月にある黒ずんだ部分を消すように仏のおこないをしなさい。それは日々の仕事の中でひと鍬ひと鍬働いていずれ米が実り万人を養う。そのようなことを心得ていくと黒ずみが消えていく。世俗の中で労働をたしなみおこなっていくのが道」
日本人の心の内にこのような考えがある。
2.社会的であろうとする
企業はmoney making machineである前に、社会的であろうとする。その結果日本には長い歴史を持つ企業が多い。1400年以上の企業が5,6社ある。しかし、このようなことは欧米ではあまり興味を持たれない。そのようなことに興味を持ったのはインドと中国だった。
長寿企業は後生大事に仕事しているだけではない。市場に対する対応能力が非常に高いから長寿企業になる。たとえば、企業を経営している二代目三代目はどんなことを言うかというと、「先代から受け継いだバトンをどうしても後代に渡したい」と必ず言う。もし企業を金儲けの手段としてしか見てないなら、そんなことは言わないはず。だから多くの日本人の心の底では、企業は社会的な存在であることを意識していると言える。
最近、CSRが盛んだが、日本の企業は欧米の企業よりそのようなことに熱心。それは世間から批判されるからと言うネガティブな動機ではなく、そのようにすることが企業にも社会にもいいからと考えるから。社会での共生を知っている。江戸から伝わる三方良し、つまり売り手良し、買い手良し、世間良しを知っているから。近江商人がそうしたように陰徳善事を積むことが当たり前になっているから。
たとえば江戸時代に天変地異が起きれば炊き出しや借金の猶予、寺社仏閣や公共施設への寄進をした。そのような心が日本人にいまも残っている。どんな企業がリスペクトされるのか、その基準にもなっている。
なぜインドや中国が長寿企業に興味を持つと思うのかというと、舩橋氏の著書『新日本永代蔵〜企業永続の法則』が欧米では翻訳されなかったが、インドと中国で翻訳されたから。
インドにタタグループという財閥がある。そこはジャムシェトジー・タタ(1839-1904)が創業し、いまでは綿紡績・鉄鋼・電力・金融・不動産・自動車・食品・レジャー・通信・IT・小売りなど、広く商売をしているが、創業者が創業するときに「企業の目的は社会のためにある」と言っていたので、そのことが正しかったことを確認するためにこの本を出版した。
中国では現在急成長から世代交代の時期になっている。二代目に会社を継ぐためにどうしたらいいかを考える人が増えているからこのことに興味が高い。
帰り際にパネリストだった久米信行さんにひさしぶりに会ったので挨拶した。「日本でソーシャルビジネスって、わざわざ言うのがよくわからないですよね」と言うとこう答えてくださった。
「中小企業の親父はみんな社会のために走りまわっていることがわからないんだよねぇ」
久米さんほど走っているひとはなかなかいないと思ったが、それは言わずに「そうですねぇ」と二人で笑った。
読んでいろいろ考えました。
ぎりぎり若者の私が生意気にも思うのは、狭義のソーシャルビジネスは具体的な社会的課題を解決する為にビジネス的手法を用いる、広義ではビジネスによって広く社会を豊かにする。
と仮定すると、戦後の成長期には「あらゆる需要=社会のため」だったのでホンダもソニーも広義のソーシャルビジネスだった。成熟期においては社会的課題がより個別化・先鋭化してきているので、それぞれにビジネスで対応するの必要があり、それが先進国でいう狭義のソーシャルビジネスと言えるのではないでしょうか。
ですので病児保育の課題に取り組んだり(フローレンス)、貧困の連鎖を断ち切るための教育支援(ティーチフォーアメリカ)などは、わざわざソーシャルビジネスと呼びたいと思うのです。
いまの20-30代には「わざわざ」「ことさら」社会課題を危機感を持って捉えている人が多く、それでソーシャルビジネスという便利な横串を口にするのではないでしょうか? 今度お会いした時に、ぜひご意見をお聞きしたいです。
黒柳さん、ようこそ。書き込みありがとうございます。
若い人がそうするのは良いことだと思います。年配の者がしてきたことのアンチテーゼですからね。でも、年寄りはわざわざ区別しなくてもいいんじゃないかなと思うのです。区別していままでの会社を否定して対立を生み出してもあまり役に立たないのではないか?と思うのです。もちろん改める部分を抽出するのは大切なことです。それはすればいい。だけど、無駄な対立を作って戦い合うより、いままでのいい部分は認めて使いながら、新しく改革する部分を付け加えればいいんじゃないでしょうか? そのときに若い人の言うことに耳を傾けないような年寄りはちょっと別の場所に退いていただき、きちんと互いに言い合える人たちがあーでもないこーでもないといい合うのが良いと思います。
いまの日本人に欠けているのはこの言い合う時間と機会なのではないかと思うのです。杓子定規にいいとか悪いとか決めるのではなく、時間をかけて言い合って、歩み寄れる部分を採用したほうが合理的だと思います。
またどこかでゆっくり話し合いましょう。ゆるりゆるりと。効率ばかり追いかけて急いでいろんなことを決めなくてもいい文化にしていきませんか?
だいたい年よりは若者のスピードに追いつかないでしょうし。
ここのコメント欄には好きなこと書いていって下さいね。
つなぶちさん
ありがとうございます。
そうですね。無意識のうちに区別してしまっている自分がいることに気づかされました。
『いまの日本人に欠けているのはこの言い合う時間と機会なのではないかと思うのです。杓子定規にいいとか悪いとか決めるのではなく、時間をかけて言い合って、歩み寄れる部分を採用したほうが合理的だと思います。』
世代間共生ですかね…。貴重な視点をありがとうございます。
世代間共生って言葉は嫌だな。もうすでに分断されている感じがする。
言葉で「一緒にいる」と表現すると、どうも「実は分断されている」ことを意識してしまう。僕ってひねくれもの?
本当に一緒にいる人たちは「僕たち一緒だね」って確認しないものだと思う。
だから日本人はわざわざ「愛している」と言わないのじゃないかな?
友達だと思っていたひとに「僕たち友達だよね」と確認されると違和感あるでしょ?
なるほど。なるほど。
ということは「世代間」っていうワード自体が出ないような世の中が一番ですね。
黒柳さん、どうも。
そうですね。「世代間」ってわざわざ言わなくてもいいのがいいですね。でももうすでに言葉があるから「嫌だ」と言ってもそれを基礎にして会話は勝手に出来上がっていくでしょうね。
一度できた区別は区別しきって、わざわざ区別する意味がないところまでいかないとならないんでしょう。
ところで、頭の議論に戻りますが、若者が危機感を持つのは仕方ないというか、当然でしょうね。給料がどんどん安くなっているようですから。いっぽうで年配の人たちの給料はさほど下がってないのかな? かつての利率ですでにローンなどを組んでしまった人は、報酬が減ると大変なことになります。だからあまり報酬を減らしたくないと考えるでしょうね。だからその皺寄せが若者に来るのかも。そういう問題って、どう解決したらいいと思います?
つなぶちさん。
超難問ですね…。
夢のない悲観的な考えになりますが、
日本国債暴落、財政破綻、ハイパーインフレ、最後にIMF介入で抜本的な社会制度改革を迫られるという外的要因による劇薬が一番現実的なシナリオかと思っています。
感情面での世代間の問題は別として、給与や社会保障などの不公平感はシステムの機能不全から来ていると考えます。30年前の成長率・家族構成・人口構成・社会要請に基づいて作られた現行の社会システムをゼロベースで書き換えない限り、1億円と言われる世代間の生涯格差は解消されないのでは、と悲観的に考えてしまいます。
しかし世代間格差解消(所得・資産の世代間移転・再配分)を論点に争っても、民主主義では若い世代は絶対的マイノリティなので社会システムを是正する方向には動かないと考えます。シニア世代も決して裕福なわけではなく経済格差はむしろ高齢者層の方があるようですし、見ず知らずの将来世代の事を慮るより自身の損得で主張・投票行動するのは当然のことです。
経済合理性に従って運営されるはずの民間企業ですら、新卒一括採用、定期昇給、定年制などのレガシーをなかなか捨てられずにいます。というわけで、Xデーが来るまで、あと5年か10年か20年かは機能不全のOSで日本の社会は走り続ける可能性が高いのではないかと思っています。そのXデーをなんとなく予感している人が、ノマドやらソーシャルビジネスやらに流れているのでは…。
こんな回答は非常につまらないので、つなぶちさんのお考えをぜひお聞きしたいです。
黒柳さん、コメントありがとう。返信が遅くてすみません。なぜかダッシュボードにコメントが入った表示がされない設定になっていて、コメントが来ていたことにしばらく気がつきませんでした。
どうしたらいいのかね。
Xデーがあるとしたら、それはかなりの犠牲者が出るんだろうね。それは避けたいな。みんな幸せに暮らしたいだけなんだから。
財産を持つとか、権利を持つとか、所有することより、自分が存在していることのほうが大切だなと思える人が増えるといいですね。生きていればいいこともあるし、悪いこともあるけど、それでもそれらを体験していられることが幸せって感じをね。
大学生の頃にエーリッヒ・フロムの本を何冊も読んだけど、もう一度読み直そうかな。『生きるということ』に書かれていることを多くの人がきちんと理解したら、それでいいような気がする。その入門編が『愛するということ』。『愛するということ』は多くの人が読んでいるよね。それが理解できて感動できたら、『生きるということ』も読むと良いと思います。