9月20日(土)と21日(日)の二日間、宇多津町保健センターで「宇多津町の未来は幸せ? それとも不安?」と題されたシンポジウムがおこなわれた。一日目は講話者としてマーケティングコンサルタントの西川りゅうじんさん、二日目は医師の小林弘幸さんが呼ばれていた。モデレーターは尾中謙文さん。2日目の内容は、後日アップする。
メインパーソナリティ
西川りゅうじん氏
マーケティングコンサルタント。ウォークマン、ジュリアナ東京、六本木ヒルズ、福岡ドーム、京都駅ビル、愛地球博のモリゾーとキッコロ、奈良のせんとくん、全国的な焼酎ブームなどの仕掛け人として知られている。経産省の地域の魅力セッション、信用金庫協会の商店街コンテストの審査委員長などを歴任している。現在は厚生労働省の健康寿命をのばそう運動のスーパーバイザーをしている。神戸出身で讃岐が大好き。
モデレーター
尾中謙文氏
認知科学者、内閣府や総務省、ブラジル大統領、フランス大統領、シンガポール政府の戦略プランナーとして活躍。アートディレクター、作曲家、キャスターなどもやる。北京オリンピックの招致活動など、国内外で高い評価を受けている。コロンビア大学客員教授としても活躍している。
尾中 みなさん、こんにちは。今日は西川りゅうじんさんをお迎えしてシンポジウムを開きます。
西川 知り合って20年くらいですかね。今日もお招きいただいたありがとうございます。
尾中 西川りゅうじんさんはもうメディアなどによく出ていらっしゃるのでみなさんよく御存知だと思いますが、六本木ヒルズとか難しいブランディングをなさってますね。
西川 はい。まず自己紹介をさせていただきますね。マーケティングコンサルタントをしている西川りゅうじんと申します。よろしくお願いいたします。高いところから失礼いたします。西川という苗字でやっていますので、ときどき西川きよし師匠はどうしてますかと質問され、よくその一門の人と間違われます。スタッフから番組のあとで振込先は吉本興業でいいですかといわれたこともありました。
りゅうじんというのは本名で、法隆寺の隆、西郷隆盛の隆に、尋常小学校の尋、尋問の尋と書きます。家がもともと神主でした。それで隆尋と名付けられましたが、いまの人には読めないと名前をひらがなにしています。さきほど仕事に関して紹介していただきましたけど、仕事は、天の時、地の理、人の和がないとだめですね。なんといっても人のご縁ですね。こういうご縁が世の中を動かしていく。これは時代が変わっても変わらないのかなと思います。今日はお呼びいただき、ありがとうございます。
尾中 宇多津町は昔からよく御存知なんですよね?
西川 よくというほどではないのですが、神戸にいたので両親の旅行先だったり、父が経営していた会社の取引先が丸亀にあったりもしましたのでちょくちょく来ました。宇多津町に来たときの思い出は、塩田がなくなったのが1972年ですから、おそらく小学校くらいのときだと思います。とにかく塩田のイメージですね。当時は国道11号というのがありました。いま33号ですね。いまバイパスが11号に移りましたけど、おわかりになる方にしかわからないと思いますけど、その33号沿いを車で走ったときの景色が印象的でしたね。とにかく塩田があって、白いイメージがありますね。塩田でできた塩が道にも飛んできて、このあたりを走ると車が真っ白になってしまう。そういう景色を見た一番最後なんですかね。
あとこのあたりでは太鼓台の祭があったんですね。香川県の西から愛媛県の東のほうにいたる祭で、もとはきっと雨乞いの祭ですよね。宇夫階(うぶしな)神社で、さあしましょうと。勇壮な祭ですよね。それを覚えていますね。獅子舞も有名でしたね。
地域経済が凋落するとき
尾中 地域が時代とともに変遷していくわけですけど。時代のリズムに対応できる地域と、対応できる人々はどういう特性や資質があるんでしょう?
西川 どこでもいろんな変化がありますけど、大きく客観的に地域を見ないといけないと思うんですよ。宇多津町は町が比較的元気だと思うのです。だから坂出や丸亀と合併せずにやってこれた。これはすごいことですよね。一番の変化は塩田がなくなったということだと思うのですが、そういう時代の変化の中で活かされているということが、この宇多津町のいいところですね。全国的に町の人口は減りつつありますが、そのなかで宇多津町が減少してないというのは凄いことなんです。
これからの変化で一番日本にとって大きいのは人口減少ですよね。戦後ずっと人口は増えてきたんですよ。明治以降増えてきた。第二次大戦とか、関東大震災のときは若干減ったりとかはもちろんしましたけど、ずっと全体的には増えてきた中で、いまや日本では人口が増えているところはほとんどありません。東京都でさえ自然減です。産まれる人の数と亡くなる人の数では、亡くなる人の数が大きいんです。ただ社会増ではあります。仕事とかで東京に住みつく人は増えているんですね。でも、2020年の頃の東京はつるべ落としのように人口が減ります。人口が減って何が悪いのか。別にいけなくはないのですけど、明らかに言えるのは、一人の方が年間に使うお金は平均121万円なんです。生まれてばっかりのお子さんから、天に召される直前の方まで、平均すると一人の人が使うお金は121万円です。もし誰かが天に召されると、その方がいままではスーパー行ったとか、うどんが食べたとか、あったわけですが、それがなくなる。つまりその町の経済がひとり亡くなると121万円ずつ小さくなる。これが10人になると1210万、100人になると1億以上になるわけです。つまり一年に100名の人口減少があるとその地域の経済は1億2100万ほど縮小してしまう。そうするとみなさんお仕事していると思いますけど、たとえばガソリンスタンドでガソリンを入れていた人が減るわけですね。当然減るとガソリンスタンドの売り上げが減りますよね。そうすると当然のように同じ給料を払っていくことができなくなります。売り上げが減っているのですから。宇多津町の皆さんも年金いただいている方がいらっしゃると思いますが、年金ももとはと言えば税金です。売り上げが減って税金が減れば、年金も払うことができなくなります。そういう意味では急激に人口が減るというのは本当に大きな問題なんですね。給料も当然みんな減って行ってしまう。そして、いまここにいるこのような公共施設も少なくなっていきます。極端な例で言うと夕張です。夕張のように破綻してしまうとゴミの回収や水道サービスまで滞ってしまうわけです。そういった意味ではいまは、宇多津町は豊かですけど、ほかの地域はもっと必死なんです。財政が破綻したらどうするんだろう?と。ほかから人が来てもらわなければいけないとか、あるいは地域で物産を買ってもらうにはどうすればいいのかとか、一生懸命考えています。
宇多津町はいままでは変化に対応してきました。塩田がなくなったときは本当に大変だったと思います。その大変なところをどんどん経済が伸びていく時代だったから経済も持ち直していきました。だけどこの人口減少の中にいると、宇多津町のように豊かで、大丈夫だろうとみなさん思っているような町が、気がついてみたらとても厳しい状態になるという可能性があります。宇多津町の皆さんは塩田がなくなったときに危機感を持って、なんとかしなければというお気持ちだったと思います。たまたま日本の高度成長期が重なって、人口も増えるところだったので、マンション建てたり、ショッピングセンターを作ったり、そういうふうなことでどんどん塩田だった土地が売れて、そして水道とかガスとか、インフラも整備されたので良かったんですけど、今度は、あまりにも豊かすぎて危機感がないんです。だから、なんでもそうなんですけど、あんまり厳しすぎるところにいると良くないです。でも、あんまりぬるま湯のようなところにいると、これもまたあまり良くないです。お年を召されて全然運動しないのはからだに良くないですね。適当な付加がかかるような運動をするのがいいです。同じように、こういうシンポジウムなどに出てくると、お化粧は何しようか、お洋服は何を着ていこうかと考えることが大事ですよね。男性の皆さんでもちょっと格好つけていくかとかって気持ちが大切です。やっぱり危機感といいますか、危機意識と言いますか、これではいけないという意識を持つと言うことが変化に対応できると言うことですね。
いまはまだ平気だろうと思っていらっしゃるかもしれませんが、香川県全体で言えば人口が減っていますね。四国全体で言えばもっと減っています。全国的に減っています。そのなかでいままでのようにみなさんのお子さんやお孫さんが暮らしていくというのはなかなか大変なことです。そしてみなさんは、いま私たちは平気かもしれないけれど、次の世代どうするのかということですね。そういうことをいまのうちに考えておかないとこれは大変なことになる。
尾中 余力があるときほどチャレンジ精神を活性化させなければいけないってことですね。
西川 そうですね。いまのうちに次はどうするのかを考えておかなければなりません。そうしなければいまは豊かですけれども、人口がどう考えても減っていってしまいます。それに宇多津町だけよければいいかっていうと、そういうわけにもいきません。香川県全体のこともあるし、四国全体でもそうですし、もう地元だけの経済では成り立っていかなくなります。これは残念ながら人口が減っていくわけですから、仕方ないんです。それをどうしていくかを考えなければならない。
尾中 りゅうじんさんは瀬戸内ブランド推進連合というのをやっていらっしゃいますけど、そこでの考え方は、地域と産業の活性化のためにひとつのところだけが良くなっていくよりは、みんながよくなっていくほうがいいという方向を選ばれたんですね。
西川 私はたまたま香川県を含めまして瀬戸内の七県で、ブランド推進連合のブランドプロデューサーを競合入札で選んだ訳ですけど、やっぱりある地域はその地域で大事です。だけども、みんなで連携していくことも考えていかないと、これはやっぱり観光とか物産とか、ひとつの地域では弱いですからね。発信力も弱いし、集客の点でもアピールが少ないから、だからみんなで支えあおうということですね。
焼酎をどのようにブランド化したか
尾中 一時期ビールが人気だったときに、りゅうじんさんは焼酎を手がけられて、全国の焼酎の名産を束ねられてプロデュースされましたけど、これはどういうきっかけで、お考えでそれをしたのですか?
西川 それはもともとやっぱり危機感なんです。このなかで芋焼酎を飲むという方いらっしゃいますか? 手を上げていただけますか? はい、ありがとうございます。まあまあいらっしゃいますね。焼酎はもともと九州の文化なんですね。沖縄は泡盛というのがあります。鹿児島県、宮崎県の南は芋焼酎です。それからサトウキビの黒糖焼酎もあります。そして熊本は米焼酎、大分は麦焼酎です。お酒を飲まない人は日本酒と焼酎の違いなんてわからないかもしれませんけれども、醸造酒というブクブクと発酵させたお酒が醸造酒です。これは代表的なものはビール、日本酒、ワイン、こういうものが醸造酒です。蒸留酒というものはまったく作り方が違いまして、一度作ったお酒を火にかけて、蒸発させるんです。蒸発させた気体にもちろんアルコール分とかエキスが含まれるんですけど、それを冷やすとポタポタポタポタと気体になっていた物が液体に戻るんですね。それを集めたものが蒸留酒です。これはウィスキーとか、ジンとか、コニャックとか、いろいろとありますけど、焼酎もその種類です。たとえば米焼酎、沖縄の泡盛も米焼酎なんですけど、これは言ってみたら日本酒を蒸溜したものですね。芋焼酎とかは芋に麹を入れて作ったどぶろくみたいなものを蒸発させてポタポタと冷やして作ったものです。焼酎は酒税が低かったんです、ずっと。ところが外国からウィスキーが入ってきます。独立騒ぎのスコットランド、まあ独立しないことになりましたけど、そこのスコッチウィスキーとか、アメリカのバーボンウィスキー、このあたりのメーカーが、なんで日本は外国のお酒ばかり高い税金をかけて、同じ蒸留酒の焼酎なんかにそんな低い税率なのって、文句言われたんですよ。それでいろいろ交渉したんですけど、仕方なく焼酎の税率を上げることにした。それがいまから15年ほど前になりますけど、その頃は日本のバブルがはじけて景気が悪くなっていました。それで九州の焼酎の蔵元たちは、ただでさえ焼酎が売れなくなっているのに、九州でも消費量が減っている。さらにいまでは当たり前なんですけど、飲酒運転の規制が厳しくなった。そういうこともあって、どんどん消費量が減り、若者のお酒離れがあり、どうするんだってことになったんです。九州の中だけで考えていたのではダメだと。東京とか大阪とか、大都市で焼酎を広めなければいけないということで、焼酎の組合ができました。だけど特に芋焼酎が一番厳しかったんです。麦焼酎は吉四六とかいいちことか浸透していたんですね。麦焼酎は比較的飲みやすいですよ。ホワイトリカーですから。ところが芋焼酎は臭いですから、九州以外ではあまり飲む人がいなかったです。それで芋焼酎のブランドの人が東京で集まりまして、本格焼酎マーケティング研究会というのを作りまして、私が代表になってテレビとか新聞とか雑誌とかでいろんな発信をしたり、あるいはいろんなお店に置いてもらったりしました。
尾中 人気のないものの人気を出していくっていうのは、マーケティングによってだと思いますが、もう少しわかりやすくその手法のようなものを教えていただけますか?
西川 人気のないものというよりも、知らなかったんですね。芋焼酎を恐らく香川県で30年前に飲んだことのある人はあんまりいなかったと思いますね。どうです? 30年前から芋焼酎飲んでいたって方いらっしゃいますか? まずなかったと思うんです。東京・大阪とかでも、芋焼酎はほとんどありませんでした。置いていたとしたらさつま白波という、一番大きな薩摩酒造が作っていたものくらい。しかも飲むのは南九州出身の男性だけです。いまなら若い女性にお酒何が好きですかと聞くと、森伊蔵とか村尾とか魔王とかでてきますけど、20年前に女性とデートに行って、何飲みますかって聞いて、「芋焼酎!」と言われたら、後退りして逃げたと思います。(笑) そんな人とはとても付き合えないという感じだったと思います。だからみんな知らなかった。もともと知らなかったものの魅力と価値を、お客様の立場で考えて売っていくということなんですね。
たとえば、芋焼酎の場合は、鹿児島で飲めば夏でもお湯割りなんです。夏でも。熱い夏でもお湯割りです。お湯を先に入れるんですね。あとで芋焼酎を入れたほうが香りが立つんですね。臭いんです。それで芋焼酎の身体にいい成分がより吸収されやすくなるので、夏でもお湯割りなんです。そんなのどうです? 暑い夏にお湯割り。それはやっぱり地元ではそうかもしれないけれども、ほかの地域の人たちには合わない。ですからたとえば水割り、オンザロックとかで対応していく。それから芋焼酎は日常のお酒で格好いいものではなかった。それをお洒落なものにして東京とか大阪の都心部で発信していく。ラベルを変えるとか、いろんなパンフレットを作ってお洒落な写真を入れるとか。それからあと健康なんです。みなさんも一番大事なのは健康ですよね。心と身体。健康でなかったら何もできない。女性の場合は、健康と美容が関係する。健康であれば肌もツヤツヤするし、美容にもつながりますね。だから健康はとても大事なんです。芋焼酎を飲むと健康でいられるという知恵を南九州の人たちは持っていたんです。なぜなら毎晩芋焼酎を飲んでいるのに長生きしている人がいっぱいいたんですね。でもそれがなんでなのか、研究機関に委託しまして、いかに芋焼酎の成分が身体にいいかということを調べていただいた。すると当時赤ワインがブームでした。なぜ赤ワインがブームになったのかというと、赤ワインのあの赤がポリフェノールだと、生活習慣病の予防になるらしいと。フランス人なんかあんなに脂っこいものを食べているのに生活習慣病の人が少ないのはなぜかというと、赤ワインの赤い成分をお水のように飲んでいるからあれがいいらしいということもあって、赤ワインが流行った。これも健康だったんですね。で芋焼酎も何かいいはずだと思って調べたら、赤ワインよりも1.45倍血栓を溶かすということがわかった。そういうことを発信したんです。それから著名人です。たとえばコブクロとか、長嶋一茂さん、布袋寅泰さんとか、当時龍馬伝をやっていた福山雅治さんとか、木村拓哉さんとか。キムタクは工藤静香さんと結婚しましたけど、お二人はワインとかで結ばれたのではなく、芋焼酎で結ばれたんです。婚前旅行は鹿児島の種子島ですよ。あそこはロケットだけではなく、サーフィンの人気のところなんですね。キムタクや福山雅治が飲んでいるということになると大変ですね。
尾中 お話しを伺いますと、ブランディングとかマーケティングとかいうものは、ただものを知らしめることだけではなく、楽しんでいただく。人を使って、楽しんでいただくだけではなく、好きになっていただくというのがブランディングの本質で、そういうところを発信するようになると全国的に広がっていくと言うことなんですね。
西川 そうですね。どんなことでもそうだと思うんですけど、温故知新なんです。故きを温ねて新しきを知る。昔からあるものの良さを大事にしながら新しいものも取り入れていくということ。その両方が大事だと。古いものを大切にしながら新しい発信の仕方とかを考えていく。この町も古い古町と、新しい恋人たちの聖地の海沿いの町の両方の良さがありますよね。その両方を大事にする。古いものはより伝統・歴史・文化を大事にしてください。新しい部分は新しい部分で、より新しい発信の仕方で情報を伝えていくというのが大事だと思います。
地域のイキイキを生み出す
尾中 地域がいきいきしているというのは、そこに住まう人たちが毎日そのことを考えたり、話し合う場が必要だと思いますけど、そのコミュニケーションの方法はどうすればいいですかね?
西川 やっぱりみなさんで、いろんな年齢のみなさんがいると思いますけど、地域の宝をみんなで伝えていくと言うこと。みんなでひとつのことをすれば仲良くなりますね。たとえばお祭りなんかそうですよね。いままで知らなかった人たちがお祭りをやると、いろんな苦労をともにして仲良くなっていく。ですから、たとえば地元の先輩方が知っていらっしゃる、歴史とか、伝統とか、文化とかを伝える何かをする。たとえばおはぎの作り方をみんなで伝えるとか、あるいは太鼓台を若い世代、または新しい住民の人たちに伝えていくとか、そういう一緒にやっていくことを通して場作りをする。そういうことがなにより大事なのではないかと思います。ただ単にああでもないこうでもないと議論することも大事だと思いますけど、ひとつのことを一緒にやるといっぺんに打ち解けるので、苦労をともにするといいですね。この町は昔からいる方と、新しく来た方といらっしゃいます。新しく来た人たちも町に溶け込みたいと思っていると思います。みんなとは言いませんけど、たとえば子供が生まれたら、伝統とか文化の町に育てたいなと絶対思っていますよ。そういうふうなところに声をかけていって、そういう人たちと一緒に何かをやってみるのが大事かなと。
尾中 地域の歴史の共有というのがなくなっちゃうと地域というのは簡単に滅びちゃいますよね。
西川 そうですね。
宇多津の歴史・伝統・文化
尾中 この宇多津というのは振り返ってみるとものすごい古い歴史があるそうですね。
西川 そうですね。宇夫階神社は恐らく香川県で一番古い神社じゃないですか? だと思います。本当に歴史のある神社です。
尾中 古墳時代からあるみたいですね。
西川 神社自体は日本武尊の息子がここに来たときに海が荒れて、困ったのでこの神様に祈ったら小さなカラスが導いてくれて難を逃れたと。小烏様というんですよね。郷照寺もこの街のシンボルだと思います。78番の札所ですが、もともと四国の玄関口だったわけですから、昔から栄えていた訳ですね。かつてはここいらは鵜足(うた)郡だったんですね。その津の部分が鵜足津(うたづ)ということでしたよね。だから古町を含んだ広い部分が鵜足で、その海辺、津の部分が鵜足津、いまでは漢字が変わって宇多津になりましたけど、その両方を大事にしていくことが大事ですね。本当に素晴らしいものがたくさんあります。特に郷照寺が特別なのは、真言宗と時宗が両方伝わっているというお寺ですよね。そういうお寺は四国中探してもひとつもない。この町の人たちはお祭り好きだと思います。なぜかというと、時宗というのは一遍上人が遊行と言って踊りながら念仏を唱えたんですよ。だからみなさんも踊り好きでお祭り好きなのではないかと思います。そういう歴史があって、それを大事にしたら良いですね。いろんな説があるんですけど、盆踊りが全国にありますよね。もともとは時宗の踊り念仏が最初ではないかと言われています。そういう意味では、そういう文化のあるところはそうそうないですから。郷照寺は厄除け、宇多津大師としても有名ですが、踊り念仏も大切です。そういう昔からの文化、これを若い人たちにどうやって伝えていくかが大切かなと思います。
尾中 香川というふうにエリアを広げてみると、空海の生まれた土地です。空海は大密教ブームを日本中に巻き起こしました。視点を変えると当時京都に首都を移したときに天皇が空海を使ってブランディングしたということです。どうブランディングしたかというと日本のはじめての憲法、憲法十七条を制定した聖徳太子の第二条に「仏法僧帰依」と。仏とお坊さんには頼りなさいと。それまでは天と地のあいだでそれまでは神道という形で、神の命令によって動いていたものが、感情とか気持ちの上で、弱ったりとか、救われない気持ちがあったときに仏教をハイブリッドして日本を強くしようとしたわけです。その本質的なところが空海の生まれた香川県にあるわけですね。
西川 太鼓台が確か赤と黒の布団を重ねるじゃないですか。赤が神道で黒が仏教で、そして神仏混交の時代が長く続きましたから、神様と仏様が一体になって衆生を救っていたわけで、そういう意味では宇多津町でおこなわれる秋祭りの太鼓台というのは、その象徴的なお祭りなんですね。
尾中 日本古来からのふるさとのようなところなんですかね?
西川 四国全体がそうですし、香川県は特に弘法大師の生まれたところでもあります。そしてこの宇多津町は四国の顔だったんですね。本州に対しての顔だったんです。玄関口だったわけですね。いまも瀬戸大橋でそうなっています。そういった意味でさまざまな文化が交流する港の街でもあり、神や仏が交流してお祭りがおこなわれる土地でもあるんですね。
尾中 20世紀は物質的な豊かさが大流行して、あらゆるものが発達し進化し、成長していったわけですけど、お金とか物質が進化しすぎるとどうしても心の豊かさとか精神的な豊かさが少し欠けてくる。21世紀に入って成長が止まっているひとつの理由というのが、どうも心の豊かさをもう一回見直してみようというコミュニケーションが欠けているからだと思うんですね。宇多津町は人口密度がとっても高くて、すごく成長性が見えるところなので、ぜひ若い人たちと向き合ってですね、心の豊かさとは何なんだろうと考えていくいい時期なんだと思いますね。
西川 そう思いますね。もともと宇多津は鵜足の古町と、港のエリアとによって成り立っているわけで。津のほうは塩田があったわけで、そこがいま新しい町になっていったと。同じような例を世界で見ますと、ドナウ川の真珠といわれた町をみなさん御存知ですか? そこはハンガリーのブダペストという町なんですね。ハンガリーの首都です。ブダペストはブダという町とペストという町が一緒になったんですね。ブダは王宮という意味で、古町のようにクラシックで歴史・伝統・文化があるとろこなんです。ペストは竈という意味で、港町で、商人が行き交う町だったんですね。ペストの方はモダンで、世界中から文化や人が集まりました。変わらない王宮と変化に富んだ港が両方ひとつになっていい町になっていったわけで、それがパワーになっていったんです。同じように宇多津も古町の歴史・伝統・文化。これは宇夫階神社があり、郷照寺があるところですね。そこには変わらないものがある、スタイルもある。それと同時に港の方は塩田になり、いまや恋人の聖地になり、若い人たちの人気の場所になっている。そこに新しい外からの文化が加わる。新旧の両方がある。そこにこそ新しいものが生まれるんですね。新しいものは物質もそうですけど、際(キワ)の部分に生まれますよね。新旧の町、古町と港、そういう組み合わせにこの町の発展性が生まれるんですね。
地域の活力は個人のワクワクから
尾中 僕は認知科学者なんですが、これは認知症を研究している訳ではなくて、脳がどういうときにものを把握するか、あるいはどうやって記憶するかという仕組み作りをしていく学問なんです。脳の中で何が起きているかというと、認知をするときにアドレナリンというやる気を出すときに出てくるホルモンがバッと出てくるんですね。ところが同時にノルアドレナリンという不安物質を、不安を感じるホルモンが同時に同じ量出てきてます。アドレナリンを出すにはどうしたらいいかというと、ほかの人とコミュニケーションするといいんです。しかも少し違和感のあるコミュニケーションをするといいんです。新しいことを話すとか知らないことを話すとアドレナリンが出てきていいんです。アドレナリンがしょっちゅう出てると絶対認知症になりません。ところがノルアドレナリンといって、不安物質ですね。ちょっと先のことを考えると不安になってそれが考えを邪魔したりするんですけど、逆にノルアドレナリンがないと予測作業ができないので、つまり不安というのは裏を返すと先の先まで予測できるとてもいい効果があるんです。こういうふうに人とコミュニケーションすると認知症の抑制になりますので、100歳になっても全然平気だったりします。日野原先生という聖路加病院を作られた先生とこのあいだお話しをしたのですが、ちょうど103歳になられたところで、髪が半分ほど黒いので染めていらっしゃるのですかって聞いたら、いや地毛ですよと怒られてしまったんですけど、本当によく色々なことを覚えていらっしゃいますし、全然年取られても若いときとまったく変わりがなくて、どうしていらっしゃるかというと、知識とか新しいことに対しての好奇心を失わないんですね。常にワクワクすることだっておっしゃっていました。もしかすると地域がいきいきするというのも新しいことに興味を持ってワクワクする人たちが増えてくるとその地域はいきいきしてくるんじゃないかと思うんですけど、いかがでしょうか?
西川 その通りですね。やっぱり人が地域のもとですし、人の元気が地域の元気ですから。そういう意味では宇多津町の場合、または讃岐の人たちの場合はあまり心配はいらないと思うんですけどね。今日いらしたみなさんもにこにこしていらっしゃるというか、のほほんとしていらっしゃるというか。やっぱり豊かですから、ここは。本当に豊かでその心配はないとは思いますが、やっぱりみなさんが、新しいことをやってみようかなとか、何かを学んでみようかなとか、新しい人に会ってみようかなと、そういう気持ちに一歩踏み出すというのが大事ですよね。みなさん今日いらっしゃるのをどうしようかなと思ったかもしれませんけど、一歩踏み出してみるっていうことがなによりも大事です。人間というのは習慣の動物ですから。このあいだ行ってみたからじゃあまた、なんてことになるわけで、そういう意味では、新しいことに一歩とりあえず目をつぶって踏み出してみるという習慣をつけていくのがいいでしょう。あまり危ないところに行くわけじゃないですからね。いろんな場に出ていくということが地域のいきいきさにつながっていくんですね。
いままでの栄光は脇に置く
尾中 昔、仏陀に阿難という弟子が「一番大切なことはなんですか?」て聞いたんですね。すると仏陀は「戒・定・慧(かい・じょう・え)」だと答えました。「戒」は戒律の「戒」ですね。自分が守るルール。つまり人は自分で自分を律することはできない、だからそれをあえてすることが大事だと。そして「定」、定まるという字ですね。人間はブレやすいと。なかなか定まらないんだと。同じ方向に向かって歩けばきちんと向かっている方向に着くはずだけど、定まらないから思わぬところに行ってしまう。だから一度決めた方向を変えずに進むことが大切であると。そして最後の「慧」ですが、これは智慧の「慧」ですね。これは情報や知識をたくさん身に付けると言うことではないんです。むしろ知識や情報をたくさん蓄えると人は往々にして傲慢になったりします。そうではなくて、謙虚な気持ちになって、少し持っているものを脇に置いて、心の中をからっぽにしてみる。そうするといま目の前に出てきた知識や知恵をどんどん吸収できると。それが本当の智慧なんだというわけです。地域をいきいきさせるためには、いままでのものをちょっと脇に置いて、まったく新しいことをやってみようじゃないかというチャレンジが大切だったりしますよね。
西川 そうですね。やっぱりなんでもそうですけど、いままでこれでうまく行っていたというのはそれはそれでいいんですけど、これからの宇多津町をどうするのか。塩田がずっとうまくいっていたけれども、これからはどうするんだろうって考えたように、これから人口が減っていく中で、どうやって宇多津町を盛り上げていくのかっていうことを考えていかなければなりませんよね。まず、宇多津町の人たちというのは、いままで観光とか、外からどんどん人に来てもらおうとか、あまり考えなかったのではないかと思います。それから物産の振興ですね。この地域特有のおみやげとか、そういうものをどんどん国内や海外に売っていこうとか、そういうことはあんまり考えなくても良かった。ほっといても人が出入りしてくれるとか、人口も増えている。でもこれからは外から人が来てくれるようにどうするとか、ここの地域の物産をもっと外の地域の人たちに知ってもらうにはどうするかとかいうことを考えるようにならないと、いままではよかったけど、これからはどう? と言うことになってしまいます。だからいろんな新しいことにチャレンジしてみる。新しいイベントをやってみるとか、新しいお祭りをやってみる、そういうことが大事なんですよね。
新しいGNPで生きよう
尾中 最後に、りゅうじんさんのこれからの幸せっていうのはどういう方向にあるんでしょうか?
西川 さきほどどなたかがおっしゃったように、日本の国自体の経済はもちろん大事ですけど、これからは心と身体の健康とか、どのように暮らすと心地いいとか、そういうところに向かっていくと思うんですね。日本の国はずっとGNP(国民総生産)至上主義でした。それは学校で言えば、成績がいい方がいい、偏差値が高いほうがいい、そして町も人口が多い方がいい。会社も売り上げが多い方が偉い。店舗数が多い方が偉い。そうふうに数字が大きい方が偉い時代でした。GNP至上主義というのは基本的にそういうことだったと思います。でもこれからは個人もただ単に成績がいいとか、お金がたくさんあるからとか、そういうものが優先される時代ではないのではないですか? だってお金がたくさんあっても幸せかどうかは別問題ですからね。もちろん最低限生きていくためのお金は必要ですよ。だけども、お金があれば幸せとは限らない。そういうことからすると、新しいGNPが必要だと思うんです。Gは元気。Nは長生き。Pはポックリ。元気、長生き、ポックリです、みんなが目指すのは。これが一番の幸せじゃないですかね? だから新しいGNPで生きていく世の中になってきたかなって思いますね。
尾中 今日は素晴らしいお話しをありがとうございました。
西川 ありがとうございます。