繰り返すこと

毎朝『日刊 気持ちいいもの』を書いている。するといろいろと気づくことがある。そのひとつをここに書こう。

夢に何か気持ちいいことが登場すると、それを『日刊 気持ちいいもの』に書くことができるが、そうではない場合、たいてい最初に思いつくのは前日に書いたことだ。「まあそうだろう」とそのことを特に気に留めていなかったが、これって人間の、または脳を持つ生命の特徴なのかもしれないなと思ったとき、思い出したことがあった。

それは子供が言語を獲得していくとき、何度も同じようなことを語る。しかも、頻度が高いのは、同じことの中にある些細な違いについて語ることだと言語学の本で読んだ。

だとすると、僕のような大人でも、実は脳のある領域では絶えず子供と同じことをしているのではないかと考えた。しかし一方で同じことを繰り返し反芻することは「意味がない」と教え込まれた結果、教育された大人は、それを無視するようになった。

なぜ同じようなことを繰り返し考えてはいけないのだろう?

人間には学ぶことがたくさんある。それらを学ぶためには、理解したことはすぐに大きく発展させるか、もっと別なことを学ぶかするように教え込まれたからではないか?

スケートボードをする若者を見るたびにすごいなと思う。あんなこと、とてもできない。あれを学ぶのにどれだけの時間を費やすのだろう? そして学んだ結果、誰もできないようなことを始める。繰り返すことで彼、または彼女はスケートボードを可能にする身体的状況を身に付けた訳だ。スケートボードという世界に取り組み、それを発展させ、誰もしなかったことをしだす。

スケートボードという「同じこと」を繰り返し、その世界にある些細な違いと取り組んだ結果、いつかはっきりとした目に見える違いを生み出したのだ。繰り返すことという一見「意味がない」と思いがちなことに対して些細な違いを積み上げてはっきりとその違いを生み出したということだ。

学校に通っていたとき、疑問に思ったことがあった。それは、定式を覚えれば学んだことになるのか? ということ。僕は小学生の頃、鶴亀算が早くはできなかった。鶴と亀がいました。合計すると何匹いて、足が何本です。鶴と亀はそれぞれ何匹ずついるでしょう?という奴だ。僕はその計算を「鶴が一匹だとすると・・・」「鶴が二匹だとすると・・・」としか計算できなかった。そこに兄がやって来て、方程式を教えてくれた。鶴の匹数をx、亀の匹数をyとすると、、、、

あっという間に計算できた。それを僕はすぐに覚えた。おかげで鶴亀算はすぐに解けるようになった。
学校で先生に質問され、すぐに解いて「どうやって解いたか?」と聞かれたので方程式を披露した。
すると「教えていないことは使っちゃいけない」といわれた。
そこで僕の悩みが始まる。
方程式で解くということは鶴亀算を解くことではないのか?
小学生にも関わらず、哲学的命題に直面したのである。(笑)
方程式のやり方を覚えれば、簡単に答えは得られる。
しかし、それでは実質的な内容は理解できていないのではないか?
それがちょくちょく頭をもたげる。
新しいことを習うたびに、「答えは簡単に出せる。しかし、それでは実質的な内容が理解できていないのではないか?」と悩む。
おかげで僕の学力はなかなか上がらない。学力はイコール、答えをいかに早く簡単に出すかによるから。一番困ったのは高校でベクトルを習ったとき。答えは簡単に出るのだ。しかし、それが何をどう意味して、だからなに?がよくわからない。試験で丸をもらってもあまりうれしくない。内積というものを計算せよという問題が出るのだが、答えは出せる。だが、内積の意味がまったくわからない。大学に入ってやっと内積と外積という対の概念であることと、物理ではどのように使われるのかを習ってやっと理解した。

つまり、定式やレッテルを覚えただけでは実質はともなわない。「スケートボードは車輪の付いた板の上でバランスを取ること」とレッテルを貼って理解しても、スケートボードには乗れない。言語化できない些細な違いを感じながら、スケートボードに乗り続けた人だけが乗れるようになる。つまり、実質を得るためには繰り返すことが大切なのだ。

そこでさらに思考は飛躍する。遺伝子も同じことをしているのではないか?

無性生殖の生物はおなじ遺伝子を何度も繰り返し複製する。そしてときどき遺伝子のコピーエラーが生まれて、新しい形質を得たりする。それがいつしか雌雄を得た。リン・マーギュリスによれば、いまより強かった太陽光線によって遺伝子にコピーミスがたくさん生まれるため、雌雄の結合によってそれを中和するためだという。それにしても、たとえ雌雄があっても、遺伝子の変化はごくわずかだ。顔が多少違っても、身体のほとんどの機能は共通している。つまり遺伝子もほとんど同じだが、些細な違いを何度も繰り返し生み出しているのだ。

結論? いろんな結論がある。どれでもいい。結論はレッテルだ。明確になったのは僕が『日刊 気持ちいいもの』をこれからも書き続けること。

日刊 気持ちいいもの

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