秩父川瀬祭

秩父今宮神社の宮司である塩谷崇之さんに誘っていただき、秩父川瀬祭に行ってきました。とても立派なお祭りだったので、こちらで撮影した写真を紹介しながら、お祭りの概要について書きます。

この祭りは平安時代に流行った祇園祭がその前進とされています。なので、たくさんの山車が町を練り歩き、悪疫退散を祈ります。京都の祇園祭と同じく、ところどころで「蘇民将来」のお札がありました。京都の祇園祭についてはこちらをご覧下さい。

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ピエール・テイヤール・ド・シャルダン年譜

ヌースフィアの概念を生み出したピエール・テイヤール・ド・シャルダンの年譜です。少しずつ内容を加えていく予定です。→(書名)p.・・ とある場合は、そこに関係した内容が書かれています。
年号のあとに月日を書きますが、月日が書かれてない場合は、その年のいつであったかは不明です。

1841年
祖父ピエール=シリス・テイヤール、ヴィクトワール・バロン・ド・シャルダンと結婚。

1844年
父アレキサンドル=ヴィクトル=エマニュエル生まれる。

1853年
母ベルト・ド・ドンピエール・ドルノワ生まれる。

1881年
5月1日 テイヤール家の第四子として、フランス中南部マシフサントラル山岳地帯にあるオルシノ村字サルスナにてマリ=ジョゼフ=ピエール・テイヤール・ド・シャルダン生誕。

1890年
5月10日 ルシール・スワン、アイオワ州スーシティにて生まれる。

1892年
4月 ヴィルフランシュ=シュール=サオーン(ローヌ県)にあるイエズス会経営のノートル・ダーム・モングレ高等中学校入学
5月26日 母の参列のもと、モングレで初聖体を受ける。

1895年
12月8日 聖母への献身の誓願を立てる。

1897年
8月2日 最終学年哲学級賞品授与式にて、七つの賞、一つの褒状、同窓生から名誉賞として五冊揃いのフランス人名大百科辞典が授与された。

1899年
3月20日 エックス=アン=プロヴァンスのイエズス会修練院に入る。

1900年
10月 ラバル市の修練院に移り、修練期の後期を終えると同時に哲学課程に進むに先立ち古典語、一般教養に専念する文学修士期(ユニオラート)に入る。

10人の兄弟姉妹がそろう。

1901年
3月25日 初誓願を立てる。
10月〜1902年10月 ベルギー国境近くのボンセクールにてユニオラート(文学修士期)二年目。
『テイヤール・ド・シャルダン』竹田誠二著によれば、ユニオラートの二年目はイギリス領ジャージ島でとなっている。

1902年
10月〜1905年10月 サン=ルイ学院哲学研究過程

1905年
9月〜1908年末 エジプト・カイロのサント・ファミーユ高等中学校にて化学と物理学の講師。
海産化石の研究に専念。→テイヤール・ド・シャルダン竹田誠二著p49

1908年〜1912年 イギリス、オール・プレイス(サセックス州ヘスチングス)で神学研究課程。ピエール・シャルル神父(1883-1954)に会う。

1911年
6月7日 姉フランソワーズ、上海にて天然痘で帰天。→テイヤール・ド・シャルダン竹田誠二著p54
8月24日 両親列席のもと司祭に叙品。翌日、両親は息子から聖体を拝領。
この頃にチャールズ・ドーソンと知り合う。

1912年
7月半ば パリ博物館古生物学教授マルスラン・ブール(1861-1842)に対面。
8月27日-9月4日 ベルギーのルーヴァン大学にておこなわれた宗教民族学会に出席 一ヶ月滞在を延ばしてベルギー各地をまわり古生代地層の研究調査

《エオアントロプス(曙人)事件》チャールズ・ドーソンがロンドン自然史博物館にピルトダウン人の化石を提出(1950年代に偽物とわかる)。
ルシール・スワン、ジェロール・ブルームと結婚

1913年
6月末 スペイン北西部一周。アルタミラ洞窟、サン・フェリス・デ・ブエルナ「苦悩のかまど」洞窟、オビエド市近郊のピミアンゴ、(おそらく)ピンダル洞窟を訪ねる。

1914年
7月 第一次世界大戦勃発
12月 徴兵検査ののち招集。第13看護小隊に配属。

この頃に『創造的進化』と、独自の思想との違いを意識する。→(テイヤールの生涯Ⅰ p.90)

1915年
1月20日 第8モロッコ狙撃兵連隊(6月22日、第4アルジェリア歩兵狙撃兵混成連隊と改名)に配属
5月15日 伍長に進級

1916年
11月25日 大尉昇進

『宇宙的生命』執筆。→『テイヤールの生涯Ⅰ p92』

1917年
8月13日 『神秘の場』執筆。
9月 『前線への郷愁』執筆。→『テイヤールの生涯Ⅰ p95』

1919年
3月10日 除隊
7月   復員者のための特別国家試験 地質学研究証書試験《良》で合格
10月  植物学研究証書試験《可》で合格

『物質のうちなる精神の力』執筆。

1920年
2月28日 手紙「最後の学士試験の準備に夢中になり、時おりへとへとになっているのに気がつきます…」→『テイヤールの生涯Ⅰ p79』
3月19日 動物学研究証書試験《可》で合格
6月16日 レジョン・ドヌール五等勲章を授与される
8月 渡英。ピルトダウンで「発見」された頭蓋骨に感銘を受ける。

地質学者グレンジャー(米国自然史博物館)と知り合う。
「ジャージ島の構造に関する覚書」出版。

1921年
7月5日 始新世前期の哺乳類と地層に関する学位論文を提出

最初の四半期間にスイス・バーゼルの科学者シュテーリンと親交を結ぶ。

1922年
3月22日 始新世前期の哺乳類と地層に関する学位論文公開審査。審査委員会を完全に満足させた。
3月25日 オーギュスト・ヴァランサンに「原罪を歴史的見地からどのように考えるか」と題するエッセイを送る。→1924年11月13日の手紙の理由
8月7日、または8日 バーゼルのシュテーリンを訪ねる。
8月 ブリュッセルで開かれた学会で中国地質調査所所長代理の科学者ウォンウェンハオに会う。

「フランスの始新世後期の哺乳動物と当時の地層」という論文で博士号を授与され、パリのパトリック学院の地質学助教授となる。→『テイヤール・ド・シャルダン』竹田誠著p65 3/22とかぶっているのか? 前期と後期の違いがある。

1922年から23年にかけてソ連のヴェルナツキイがパリのソルボンヌの講義で「生物地球化学的な現象を生物圏の基盤として捉えた講演」をしている。それを受けてル・ロアが1927年のコレージュ・ド・フランスの講演をおこない、そこではじめてヌースフィアの概念について発表する。

1923年
2月 フランスからリサンへ電報を打つ。「一年の予定で行く..」→生涯Ⅰ p.109
北彊博物館マルスラン・ブール館長が中国に招く。→テイヤール・ド・シャルダン竹田誠二著p66
4月6日 マルセイユを出航。
5月17日 上海着。
5月23日 天津着。
6月7日 北京へ。地質学会出席。リサンの研究成果を発表。ブリュッセル大学の学生だったウォンウェンハオに再会。
6月11日 天津出発。
6月12日 天津からオルドスに向かう。→テイヤール・ド・シャルダン竹田誠二著p68
7月6日 オルドス砂漠に着く。→テイヤール・ド・シャルダン竹田誠二著p69
7月6日〜13日 吾拉臭河拉(ウラシュホーラ)の化石遺跡にテント生活。→テイヤール・ド・シャルダン竹田誠二著p.69
7月16日 シャラ・オソ・ゴル(紅柳江)からブルイユ神父に手紙を書く。→神父と頭蓋骨p.113
8月15日 クリストフ・ゴードフロワ神父に手紙→神父と頭蓋骨p.112
8月25日頃 W.W.デービス教授、ジョージ・バーバと張家口に行く。第四期前期の層の重要性を指摘。後日バーバとリサンは多数の化石を発見。

オルドス砂漠で『世界に捧げるミサ』執筆。

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綱淵謙錠、一字題の訳

先日、Tokyo Water Clubという異業種交流会で、僕の父に関する講演をさせていただいた。講演の準備にいろいろと調べていくと、以前にはわからなかった謎がいくつか解けた気がする。なぜ「解けた」と言い切らず、「解けた気がする」と少し曖昧にするのかというと、もう父は生きてないので確認することができないからだ。
 
父は綱淵謙錠(つなぶちけんじょう)というペンネームで作家だった。1972年上半期の直木賞をいただいた。多くの作品が一字題で、テーマは「敗者」ばかりを選んでいた。前半生は苦労の連続だったようだ。僕はあまり謙錠から本人自身の話を聞いたことがない。僕が謙錠について知っていることは、黙って書斎に籠もっている姿と、晩年二人でSeven Seasという月刊誌に14回にわたって連載させてもらったときのインタビューと、あとは残された著書程度のものである。講演を依頼されても、果たして話すことがあるかどうか心配だった。
 
謙錠の年表や作品を調べていくと、いくつかなるほどと思ったことがある。そのひとつが、なぜ一字題にこだわったのかだ。講演内容を考えていたとき、「一字題の理由」と「敗者の文学」について語ろうかと思ったが、一字題のほうはきっと明確なことはわからないだろうと思い、敗者の文学についてのみ語ろうと思っていた。ところがあることを思い出したことがきっかけで、なぜ謙錠が一字題にこだわったのか、その理由がわかった気がした。
 
謙錠は樺太の網元の家に生まれた。当時北の漁場で網元をしていると鰊御殿が建つと言われたほど儲かったようだ。鰊は季節になると産卵のため大挙してやってくる。その群れはとても大きく、海面が鰊の大群によって盛り上がるほどだったという。その状態を形容する言葉もあり、群来(くき)ると言ったそうだ。ところが、謙錠が小学校に上がる頃に家は没落する。砂浜の近くの小屋に住むようになった。なぜ没落してしまったのか、その理由を僕は知らなかった。謙錠が死んでから謙錠の従兄弟にあたる綱淵昭三に会ってはじめて理由を聞いた。当時、港には綱淵桟橋があり、そこに何艘もの船が繋留されていた。その桟橋がまるごと放火にあったそうだ。
 
昭和初期、樺太の大きな屋敷に住んでいた小学生が、ある日から海岸沿いの小屋に住むようになったとしたら、まわりの子供たちからはどんな扱いを受けただろう? いじめられなかったとしても、少なくとも好奇の目で見られたことは間違いないだろう。謙錠はそれが余程悔しかったのか、勉強に打ち込み、中学では成績が学校でトップとなり、第一回樺太庁長官賞というものをもらう。その後、旧制一高を受けに行くが落ちてしまう。一年浪人の後、旧制新潟高校に入る。高校卒業と同時に東京大学に入学するが、学徒出陣で戦場へ。生きて帰ると故郷である樺太がソ連に占領されていた。家がなく、財産もなく、その日暮らしでなんとか生き延びていく。このとき以来、謙錠は自分のことを流浪者と呼ぶようになる。そして様々な苦労を重ねた上でやっと中央公論社に入る。
 
入社翌年「中央公論」の編集担当となり、翌々年に谷崎潤一郎の担当として『鍵』を編集する。当時中央公論は発行部数も多く、人気のある一流総合誌だった。その編集者となり、しかも谷崎潤一郎という人気作家の担当になったのだからよほど嬉しかったに違いない。謙錠の長男は「純」というが、谷崎潤一郎の「じゅん」をいただいたのだという。ただし、まったく同じ「潤」では申し訳ないので「純」にしたのだとか。もしそれが本当だとすると、中央公論社に入社する以前から谷崎潤一郎のことを尊敬していたことになるのだから、その喜びはどんなものだったのだろう。
 
そのことがうかがい知れる文章が『斬』のあとがきにある。あとがきの書き出しは、漁に出て事故に遭った人たちを弔う謙錠の母の思い出からはじまり、その母から<おまじない>の言葉をもらう話に移っていく。幼い頃、樺太の真っ暗な夜道を帰るときなど、その<おまじない>「ガストーアンノン テンニンジョージューマン」を唱えながら歩いたそうだ。そしてこう続く。
 
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