あけましておめでたい? 40カ国以上が輸入規制をしている現状

あけましておめでとうございます。

今年の年賀状にはこの言葉を使いませんでした。いまだに日本は緊急状態だからです。いますべきことは、国全体を考えるのか、個人を中心に考えるのかで変わってくる。概要はここに書いた。

これからの日本がきちんと機能するためには、いろんな価値観の人がいろんな視点で働く必要がある。子どもや子孫のために疎開する人も大切だし、コミュニティを守ろうと、どんなに放射性物質の脅威があろうとも維持させようとするひとも必要だろう。これらの人たちはそれぞれに大切な役割を果たすことになる。そして可能であれば、それぞれ立場が違い、出した答えが違おうとも、きちんとそれぞれが共同できる心性と仕組みがあるべきだろう。そのためには正確なデータが必要だ。

これから子どもを産む女の人と子どもは、関西以南へ疎開するべきだ。いまは戦争時のような緊急事態だから経済的なことはあとで考えるしかない。のんびりしていると被害が及ぶことはほぼ間違いない。そして、疎開したらその土地で取れたものだけを食べること。

いまは日本が次第に変化していくことに助力したいと思う人たちだけが東北・関東に残るべきだろう。いろんな人に話を聞くと、自営業や中小企業のトップは比較的この覚悟ができている。いっぽうでサラリーマンはほとんど政府の発表を鵜呑みにしている人が多いように感じる。そのような人はあとで話しが違うと思うことになるだろう。

そろそろ大きな会社では家族を疎開させるための仕組みができあがってきても良い頃だと思う。働き手となる男は東北・関東に残り、まだ若い母親や子どもだけでも、支社のある西の地域に疎開させるという仕組みだ。もしかしたらすでに何社かはおこなっているかもしれない。問題になるので発表していないだけで。さらに、会社によっては本社の移転も始まるかもしれない。政府からよほど強くそのようなことはするなと禁止されない限り。

女の人はこのような状況に繊細だから、夫がサラリーマンで奥さんが疎開したいという希望を持っているとき、家族内での対話が非常に大切になるだろう。夫も妻も、相手の立場になって考えて上げない限り、このような対話はうまくいかない。

東北や関東に残る人は特攻隊のような犠牲的精神がないとあとで酷い目に遭うだろう。それがないのであれば早く疎開したほうがいいと思う。ただし、被爆してもなんともない人もいるようなので、酷い目に遭うかどうかは時間が経たないとわからない。

あれだけ放射性物質を排出しているのに、福島の野菜や米が国内に流通しているというのは信じがたいことだ。しかも福島に行くと、基準以下だからと福島の人たちは安心して食べている。僕のような人間が一日二日行ったところで確かにたいした問題はないかもしれないが、福島の人たちはそういう作物を毎日食べている。だから、そのような作物を販売することにも特に悪気はないし、それを咎められることを風評被害と呼ぶ。なにしろ基準を守って流通させているからだ。しかし、この基準がとても甘いことは、現在44カ国が日本からの農作物を輸入規制していることから明らかである。(「日本の作物 輸入規制」でググると去年10月時点での詳細がわかります) 福島にいると放射性物質の毒性についての話しはすべてが嘘であればいいと願うしかない。

1/1の14時28分にマグニチュード7程度の地震があった。それから数日後にはネット上は大騒ぎだったようだ。セシウムの降下量が上がったから。いっぽうで文科省はセシウム濃度の発表を日によって中止すると言いだした。文科省の言い分は「セシウムの降下量に変化が見られないから」。しかし、実際には違うことが起きていると武田邦彦博士は発表している。

政府は今年の311には有効な手立てを何か発表するかと思ったが、動向を見ているとそれは期待できなくなってきた。これからもどうやって原発を維持するかを腐心しているようにしか見えない。恐らく既得権益者がそれを手放さない限り変わりようがないのだろう。民主主義が徹底されることで、ひとりのリーダーが大なたを振るうことができなくなっている。しかし、緊急時には正しい大なたが大切だ。放射性物質がどのように分布しているのか正しく知ろうともせず、原発の状況がどのようであるか隠蔽し、戦時中の大本営発表のようになってしまっている。かつて急に敗戦が告げられたように、いつか急に敗北を突きつけられるのではないかと心配してしまう。この状況に至ったら、とにかく正確な情報を発表し続け、多くの人がそれに即座に対応できるように体制を整えない限り、何か間違いがあったときに何もできなくなる可能性が膨らんでいく。心ある政治家と官僚の活躍を期待している。

日本政府の対応は、内部被曝によって予想される被害を低く見積もることで、多くの人の命を危険にさらしていると言える。危険ではないと言い張れるのは、実際のデータがいままでほとんどなかったから。誰も放射性物質を体内に入れる実験をしてこなかった。結果は数年後に出る。もちろん何もなければいいのだが。チェルノブイリ関連の情報を探してみると、それは儚い願いにしか思えない。食べて支援はとても美しい考えだし日本の復興には確かに大切だが、数年後に個人が背負うリスクがどのようなものか、きちんと調べてから実行したほうがいい。

綱淵謙錠『斬』新装版発売

親父が書いた小説『斬』が文春文庫から新装版として発売される。この作品で1972年上半期の直木賞をいただいた。何十年も経って新装版として出版していただけて、きっと親父も草葉の陰で喜んでいるだろう。

小説の内容は、“首切り浅右衛門”と呼ばれた山田家の、幕末から明治にかけての没落を描いている。時代が変わり、人の生き方が変わり、制度が変わり、その時代の人々がどうしていったのか。それがテーマだ。

親父はこの作品をきっかけに一字題の小説を書き続けるようになる。同時に時代に埋もれていった「敗者」をテーマとし「敗者の文学」を書き続ける。幼かった僕はなんでそんなことをするのかと疑問だった。だいたい小説はヒーローを描いた方が売れるだろう。失敗した話しより成功した話しを人は読みたいと思うはずだ。それなのになぜ親父は敗者のことばかり書くのか? 親父に質問すると「歴史は成功者の側からしか描かれない。それだと時代の真実はわからなくなるんだ」とのことだった。幼い僕にはわかったような、わからないような、そんな答えだった。

親父のおかげでいまだに自己紹介で名前を名乗ると、時々親父と何か関係があるのかと問われる。現在でもものすごく有名な作家ならまだしも、一般の人はほとんど忘れている親父の名前を覚えているのは、よほどの歴史小説好きか、かつての親父の呑み仲間か、でなければ会津か新潟の出身者だ。

会津の人たちに覚えていただけるのは『戊辰落日』という作品があるからであり、新潟の人たちに覚えていただけるのは『越後太平記』という作品があるからだ。会津は戊辰戦争において幕府側であり新政府に処分され、新潟は越後高田藩松平家がお家騒動で取りつぶされた。

事実としてこれらの事件が書かれている本や資料はたくさんあるが、親父の書きたかったポイントは、それらを敗者の視点から見るとどうなっていたかだ。その結果、敗者のある特定のグループの感情が作品の中に色濃く流れるようになる。敗者というものは社会的に口を噤まされてしまうものだ。その結果、残された怨嗟は心の底に深く沈んでいく。それを描くことで結果的に敗者の側にあった人たちには非常なカタルシスが生まれる。

親父はそれを意図してやっていたのだろう。幼い僕にはそんなことはわからなかった。親父は自分は流浪の民だと言い続けた。だから作品が売れるようになり、お金を手にしても、土地も家も、お墓さえも買おうとはしなかった。流浪の民で、戦後ずっと傷ついてきた自分にしか書けないものを書こうとし続けた。

親父は歴史小説家だから、もちろんまわりには歴史に登場する有名人の子孫たちがいた。しかし、そのような人たちと親しくなるような関わりを持とうとしなかった。なぜなら、そのような関わりを持つと、歴史小説に書くべき何かに関して、筆が鈍るからだ。

表現という物は残酷なもので、ある人物を描くのに〝いいひと〟とばかり書くわけにはいかない。闇の部分を書くことでしか現れてこないものがたくさんある。それは否定し尽くした先にはじめて現れてくる何かだったりする。否定し尽くした先にある何かがどんなに美しくても、それは前提に否定が含まれるからこそ現れ出でて来る。親父の小説はきれいごとだけで済まそうとする人にはとても読みにくいものだ。そんな作品がこの時代に復活するのは、この作品に今だからこそ現れてくる深い意味が込められてのことだろう。

日本はいま敗戦のまっただ中のように思える。勝者と呼べるような人はどこにもいない。震災に傷つき、原発に脅され、放射性物質にまみれて生きている。この本のあとがきに親父はこう書いた。

「わたくしはなにかにじっと必死に耐えている人々に読んでいただきたいのである」

『ヒマラヤの叡智が未来を拓く』に参加して その3 なぜヨグマタジやパイロットババジがヒマラヤから降りてきたのか

バリ島にニュピというお祭りがある。その祭は世界的にも珍しく、何もしない祭だ。その日、バリ島の人々はすべて外出を禁止され、家の中に籠もる。だから車は走らないし飛行機も飛ばない。船も出入港を制限される。その話を聞いたとき、お正月の三が日を思い出した。僕が幼い頃の三が日は商店などがすべてお休みの静かな日だった。そのときの感覚を思い出すことができるかもしれないと、1999年から何度もニュピに通った。幸運にも僕はウブドのプリアタン村のプリカレラン王家にホームステイさせてもらった。そこでニュピを過ごす。はじめのうちはニュピの意味もわからず、とにかくその雰囲気に浸りたいから行っていたに過ぎないが、次第にニュピの意味が見えてきた。そのときのことはこちらに少し書いた。

 

これからも度々書くだろうし、すでに本一冊以上の文章量になっているのでいつか出版するつもりだ。ニュピについての詳細はそれらを読んでいただくことにして、そこで知った様々なことがいま失われつつある。

 

ニュピの日、バリ人はみんな断食したというのだが、いまではそれを厳格に守っている人はあまりいない。ニュピの翌日はゲンバッグウニという日で、かつて商店などほとんど営業していなかったのだが、いまでは24時間営業の店舗が多数営業している。それらに対してバリ島の僧侶たちはたしなめるが、なかなか聞き入れてもらえなくなってきているようだ。何しろ多くの人にとって便利で儲かるのが一番だから。近年では近隣の島からバリ島へ、観光客目当てで働きに来る人が多くなった。そのような人たちはバリ島の僧侶に耳など貸さない。バリ島民もそのような人たちに少しずつ影響されてしまう。神に礼拝もせず、祭礼のしきたりを無視している人たちが幸せそうにそばで生きているのだから。

 

似たことがインドにも起きているのだろうと思う。

 

インドではIT産業の興隆などによって裕福な人が増えた。裕福な人が増えたことで多くの人の価値観は宗教的なことからもっと別なところへと移っていくだろう。宗教的な価値観を維持したい人にとってはあまりいい時代とは言えない。しかしいっぽうで別の見方をすると、そのような人たちにとっていまは大きなチャンスの時代でもある。なぜなら、そのような人たちは昔ある地域に縛られていた。物理的に移動する手段がなかったから、ある地域に生き、その価値観を根付かせ、文化として花開かせる必要があった。ところがこのグローバルな時代になると地域に縛られる必要は薄くなる。その教えを守って維持してくれる人を探して世界中を旅したり、メディアを通じて教えを伝えることができるのだから。

 

ヒマラヤの聖者たちはインドや世界の変化を察知した。なにしろインドから遠く離れた日本から、ひとりの女性が教えを乞いにヒマラヤの奥地にまで入って来たのだ。しかも、直接の教えを施さなくてもあるレベルに達していた。ヒマラヤ近郊でなくても、ヒマラヤの教えに興味を持つ人たちが現れ、高いレベルでその教えを受け入れていることを知った。その結果として相川圭子はヨグマタとなった。

 

ヨグマタジとパイロットババジはヒマラヤの教えをきちんと存続させるため、ヒマラヤに籠もっているより世界に出て行って、教えを伝えるべき相手を探すことを選択した。これはヒマラヤから遠く離れた人にとってはいいことだ。以前では得ることのできなかった崇高な教えに直接接する機会が生まれたのだから。

 

かつてチベット仏教はラマ教などと呼ばれ、かなり特殊な仏教の亜種と考えられていたことがある。しかし、ダライ・ラマ法王が中国を追われ、インドに亡命すると、その教えが徐々にメディアを通して世界に流通するようになり、結果としてチベット仏教の本当の意味をチベットやインドから遠く離れた多くの人たちが知るようになる。ヒマラヤの教えもインドの奥地からヨグマダジやパイロットババジのおかげで日本やアメリカなどに伝わり、その本当の意味に目覚める人が現れるのだろう。

 

ヒマラヤの教えについては、まだあまり知見が深くないので推測の域を出ないのだが、チベット仏教に近いものを感じる。儀式の形態は明らかに違うが、考え方の根本に多くの存在を包み込む共通した概念があるように感じる。言葉が違ったり、儀式が違ったり、人間の尺度から見て違うことがいくつかあると、僕たちはそれらを違う物と判断せざるを得ないが、もっと大きな存在から見れば共通した何かがそこにはあるように感じる。

 

二度目のインタビューのとき、パイロットババジはこんなことを言った。

 

「ヒマラヤの教えを正しく受け取れる可能性が高いのは日本人だと思う。欧米人はあらゆる価値をお金に換算してしまう。日本人は尊いものがお金に換算できないことを知っているし、そのことを行動に示してくれる。特に今回の震災で日本人は世界に、我欲では行動しないという規範を示してくれた」

 

いまはきっと時代の転換点なのだろう。深い叡智の伝承も、かつての方法とは変えなければならないのかもしれない。

 

ヨグマタジはヒマラヤに行き、比較的短い時間で悟りに達した。その理由としてヨグマタジは、悟りに達するために積み重ねなければならない多くの体験と学びを若い頃からのヨガの修行と「相川圭子総合ヨガ健康協会」を運営することですでに積んでいたのだろう。僕たちはいま、メディアでつながり、世界中の尊い教えを享受できるようになった。最後の最高点に達するためにはメディアでは伝えられない部分を習得・体験する必要があるだろう。しかし言い方を変えれば、メディアのおかげで遙か遠くの聖者に会わずとも、ある程度まではそこに近づくことができるということではないか。そのことをヨグマタジは身をもって示してくれたのだと思う。

 

『ヒマラヤの叡智が未来を拓く』に参加して その1 静寂から生まれ静寂へと消える はこちら。