アイ・ウェイウェイは謝らない

映画『アイ・ウェイウェイは謝らない』を見て来た。

アイ・ウェイウェイは中国人にもかかわらず、中国を相手にアートを通して社会批判を続けているアーティスト。その様をノンフィクションのカメラが追っていく。

一匹の天才ネコの話で始まる。その比喩が素敵だった。そのあとに彼の話が続くのだが、中国との戦いはとても不利。個人vs国で勝てるわけがない。しかし、彼なりの工夫とユーモアでいろんなハードルを越えていく。その様が微笑ましかったり、もどかしかったり。

アイ・ウェイウェイは自分では作品を作らない。すべてコンセプトやデザインを決めるだけで、あとは職人が作品を作る。職人の言葉が印象的だった。

『僕たちは殺し屋さ。ウェイウェイがやれということをやる。理由なんて知らなくていい』

映画の後半、政府からの許可をもらって作ったアトリエを、完成してすぐに壊せと、許可したはずの政府から指示される。まるで囚人に砂山を移動しろと指示したあとで、その砂山も元に戻せという苦役のような指示が来る。それをアイ・ウェイウェイは利用する。そのことをツイッターでつぶやき、そこをパーティー会場として楽しんでしまう。集まった人びとはなくなることがわかっているアトリエで思い思いに楽しんでいく。集まった人たちの思い出が国によって破壊されていく。そのこと自体がアートと抗議になってしまう。

日本も特定秘密保護法が通り、アイ・ウェイウェイのようなアーティストが必要になるかもしれない。ぬるま湯に浸っているうちに日本人は自由も感覚も剥奪されて、ただ生きている家畜のような存在になってしまうのか。

ここから先はラストシーンについて。これから映画を見る人は見ないほうがいいかも。

映画『アイ・ウェイウェイは謝らない』ホームページ

以下の映像はそのエピソードが映画にも登場する『ラオマァティホア』

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アイ・ウェイウェイ展最終日 いたたまれない展示物のいたたまれない事情

このエントリーに存在する写真についてのCCは、エントリー最後をご覧下さい。

昨日、アイ・ウェイウェイ展の最終日なので行ってきた。行きたいと思いつつなかなか時間が取れずに行ってなかった。アイ・ウェイウェイの反骨精神に触れてみたかったのだ。

しかし、最終日にもかかわらず会場にはあまり多くの人がいなかった。作品の写真撮影がクリエイティブコモンズの条件下で許されていたのだが、人がいないので楽に作品の撮影ができた。

作品はどれも「いまいち」という感じを受けた。会場に入り人がいないのを見、そして作品を見つつ歩いていくごとに「いまいち」が膨らんでいく。この「いまいち感」の膨張はいったいなにに由来しているのか、会場にいたときにははっきりとは見えなかった。この文章を書くために、昨日の感覚を反芻して、ここに再現し、なぜ僕のなかで「いまいち」が育っていったのか、それを探ってみたい。これを探ることで、ついに僕はなるほどという点に行き着いた。それは僕にとって、または中国と日本の関係にとって、大切なことだと思う。

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