日本人に鯨を捕るなという人々

このところイルカ・クジラ関係のことばかり考えていて、頭の中がイルクジ状態です。(←なんだそれ)

「日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか」という反捕鯨の本を読んだので、今度は正反対の捕鯨擁護本を読んでみました。タイトルは『反捕鯨?:日本人に鯨を捕るなという人々(アメリカ人)』です。『日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』は幻冬舎文庫から出版され、一般読者向けの本なのでとても読みやすかったのですが、『反捕鯨?:日本人に鯨を捕るなという人々(アメリカ人)』は論文で、少々読むのに難儀しました。これを読んで、何が日本人の目を世界の認識からはずしてしまうのかがちょっとわかりました。

この本では「なぜアメリカ人が日本以外の捕鯨を認めるのに、日本の捕鯨は認めない傾向にあるのか」を考え、この問題に関してどれだけアメリカ人が日本人の話に耳を傾けないか、その理由は何かを社会科学的方法を用いて論じています。

この本の内容については直接あたっていただくこととして、僕がなるほどと思ったことをここに書きます。

よく新聞などで「なぜ他国の捕鯨は許されるのに日本は許されないのか」と書かれています。『反捕鯨?』のなかにもそのような記述が何回か見受けられます。しかし、その認識自体が他国とは違うのです。丁寧に書くと日本では「同じような国が、同じように捕鯨を主張しているのに、なぜか日本だけが捕鯨を許されない」と一般の人は理解していると思いますが(きちんとこの問題を把握している人は違うでしょうけど。ま、僕の場合はそんなふうに把握していたってことですね)、ほかの捕鯨国をリストすると、日本とは事情が違うことがはっきりします。

ほかの捕鯨国とは「アラスカ(のイヌイット)」「グリーンランド」「アイスランド」「ノルウェイ」です。並ぶとすぐにわかりますね。北極海に面している国ばかりなのです。つまり、目の前の海が北極海なのです。しかも、どこもとても寒い地方です。食糧確保はあまり簡単とは言えないでしょう。それらの国が食糧確保のためにクジラを捕るのです。日本の場合はすでに経済大国と言われるほどの十分な食料供給が可能にもかかわらず、自国の領海から出て、わざわざ北極海まで行ってクジラを捕るのです。地方によっては一年中作物を畑に植えられるような土地柄でありながら、畑を維持し続けることはできない国と、食糧確保について同じようなものだと主張しているのです。この段階でほかの国と日本の差がはっきりしたと思います。

映画「ザ・コーヴ」のシホヨス監督の記者会見にこんな発言がありました。

「伝統的な捕鯨と日本人は言うけど、その歴史はせいぜい何十年か、私の母親が生まれた頃からでしょう」

これを聞いたとき、僕は「おや?」と思いました。日本では縄文時代から捕鯨がされていたといわれています。それをなぜこの何十年かというのか、そこに疑問を持ちました。最初に思ったことは「日本のこと知らないな」でした。しかし、あとでよく考えました。「現在の捕鯨法を採用したのが何十年か前」という意味だったのだろうと。ノルウェー式捕鯨というやつです。ノルウェー式捕鯨とは動力付きの捕鯨船に銛を発射する捕鯨砲を搭載させ、それでクジラを撃つ、いまでは捕鯨と言えばそれしか思い浮かばない、あの方法です。ノルウェー式捕鯨はウィキペディアによれば1864年にできたと書かれています。それからは100年以上たつのですが、それが日本に採用されたのがシホヨス監督は何十年か前と思ったのでしょう。

伝統的な捕鯨とは何かと言えば、捕鯨砲で撃つ銛とは違い、人間の力で投げられる程度の大きさの銛を使ったものです。または網で採る方法もありました。これなら伝統的な捕鯨と言えるでしょう。しかし、その捕鯨法はいまでは使われていません。つまりアメリカ人が思う伝統的捕鯨法と、日本人が思う伝統的捕鯨法では隔たりがあり、しかも、日本人は「伝統的」と言いつつも、最新鋭のノルウェー方式で捕ることを当たり前としているのです。海外の人たちから言わせれば「なに言ってるの?」と理解されないのもうなずけます。

これらの認識のズレを埋めない限り、話はうまく行かないだろうなと思う一方で、IWCに参加している人がこんな簡単なことを知らないはずはないと思い直しました。では、いったいなぜ話がうまくいかないのでしょう? 僕がしていた勘違いは、日本国内に向けてのプロパガンダの結果であって、IWCの席上ではこんな認識ではやりとりできないと思います。真相はいったいどこにあるのでしょうね? それがわからない限りいつまでたっても日本は他国から誤解され続けるのではないかと心配です。

こう書きながら、僕はそれでもクジラを食べたいと思っています。生姜やニンニク醤油につけて食べるクジラの刺身や、から揚げが大好きです。なのであれらが食べられなくなるのは悲しいと思いますが、そのことと自然保護のための会話とをゴッチャにしてはならないと思います。可能であれば、イルカやクジラの頭数を守りながら、おいしいクジラ肉を食べられるようになりたいです。

ライアル・ワトソンの遺作『エレファントム』

1994年にケニアに行った。『ひとりぼっちのケティ』という少女マンガの原作を書く取材のためだった。そのときのことはこちらに書いた。

その取材の際に現地のコーディネーターがライアル・ワトソンについて「あいつはインチキ野郎だ」と言っていた。「なぜ?」と聞いたら、「あいつは撮影のために現実を変えることをなんとも思ってない」と言うのだ。何か自然現象の映像を撮影するとき、あたかも自然に起きたことかのように位置を変えたりしたのだそうだ。その頃、僕はライアル・ワトソンの本が好きだったので、「そんなことはないだろう」という気持ちと、「それが真実だったら嫌だな」という気持ちのあいだを揺れて吐き気がした。

それから何年かして河合雅雄先生に会う機会を得た。そのときに何年間か疑問だったことを質問した。

「ライアル・ワトソンが書いている『百匹目のサル』の話しは本当ですか?」

ライアル・ワトソンの著書『生命潮流』に『百匹目のサル』についての有名な話しが書かれている。その元ネタが河合雅雄先生の研究だったのだ。ところが河合先生の本には確かにライアル・ワトソンが引用しただろう話しが書かれているのだが、『百匹目のサル効果』については何も書かれていなかった。

このときのやりとりの詳細はここにある。

つまり、『百匹目のサル』の話しはライアル・ワトソンの作り話だったのだ。

この話しがはっきりした頃からライアル・ワトソンは新作を発表しなくなった。南アフリカに帰ったという噂もあったし、「嘘ばかり書くから干された」という人もいた。そのあたりの子細を僕は知らない。

先日、本屋に入ったら一冊の本が目に飛び込んできた。それはライアル・ワトソンの遺作『エレファントム』だった。さっそく買って読んだ。とても面白かった。象もクジラも興味のあることだったので、かつて調べた話しがいくつも出てきた。読みながら、どこが嘘でどこが事実か区別するようにして読んでいた。「嘘」と書くとちょっときついかもしれない。「創作」とした方が故人のためだろう。見事な創作がそこにはあった。その見事な創作(と思える部分)に僕は感動した。

ライアル・ワトソンは動物行動学の博士として本を書くのではなく、動物行動学博士の肩書きを持つ作家として本を発表すべきだったと思う。『エレファントム』に出てくる創作と思える部分も、あまりにも見事なので創作かどうかはっきりと断定できない。科学的に考えるなら「あり得ない」話しだ。しかし、現実としてそのようなことがあっても不思議ではないかもしれないと思えるように、ライアル・ワトソンは本のはじめから伏線を張り、見事な物語に作り上げている。

たとえそれが僕の考えているように創作だったとしても、僕はライアル・ワトソンの本が好きだ。生命科学を背景にして見事な物語を書き上げている。しかし、それを純粋な科学だと信じさせようとしていたなら、そこには問題があるだろう。

『エレファントム』の最後に出てくる逸話も創作だろうと思う。だけど、その創作を僕はとても素敵なものだと思っている。それがどんなものかは本を最初から読み味わわないとわからないだろうからここには書かない。とにかく僕には大変響いた。

『エレファントム』の中頃にこういう話しをライアル・ワトソンは書いている。

優れた追跡者と同じように、優れた科学者にも直観が不可欠だ。リーベンベルクはそれを「必要とされるはずの情報よりも少ない情報に基づいて、結論に到達する」と言い表している。そうした想像力による飛躍は科学というよりも呪術的に思えるが、実際に新事実を発見する過程ではこれがよく用いられている。本当に新しいものは、既成の知識だけでは見えてこないからだ。

既成の知識というものは、権威を帯びて教条的になることがある。絶対に正しいとされる事実や枠組みを作りだし、それらを議論の対象から除外する。多くの教科書は新たなアプローチの可能性を認めない。信じて飛躍することこそが本当の進歩につながるということを忘れている。

ライアル・ワトソン著『エレファントム』 木楽舎刊

ライアル・ワトソンも見たり聞いたりした事実から想像力による飛躍を何度もした。その飛躍に多くの科学者は反発を感じたのだろう。その飛躍をまずは「創作」という枠で提出するべきだったと思う。というか、そうして欲しかった。その飛躍が僕は好きだから。