ウブドでAKOちゃん

ニュピの前日、ウブドの交差点でブタカラのお祭りがおこなわれていた。一時間近く炎天下に立っていたので、木陰に入って休んでいたら、隣に怪しげな風貌の男が立っていた。リュックに「脱原発」と書かれていたので話しかけてみた。

「話しかけてもいいですか?」

「あ、ありがとうございます」

「原発の反対運動をしているのですか?」

「はい、さっきもそこで立っていたら警官がやってきて追い払われました」

「立っているだけで追い払われるの?」

「インドネシアでは脱原発を公で訴えると法律違反なんだそうです」

「なんで?」

「日本がインドネシアに原発を輸出しようとしていて、それに反対することを禁じているんです」

「そうなんだ。それでバリ島に来たの?」

「世界中旅してます」

「脱原発を訴えて?」

「はい、そうです」

「ホームページとかはあるの?」

「友達や仲間が作ってくれています」

「あなたのしていることをどうやって調べたらいいの?」

「ありがとうございます」

そういって一枚の紙切れを手渡された。

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『ヒマラヤの叡智が未来を拓く』に参加して その3 なぜヨグマタジやパイロットババジがヒマラヤから降りてきたのか

バリ島にニュピというお祭りがある。その祭は世界的にも珍しく、何もしない祭だ。その日、バリ島の人々はすべて外出を禁止され、家の中に籠もる。だから車は走らないし飛行機も飛ばない。船も出入港を制限される。その話を聞いたとき、お正月の三が日を思い出した。僕が幼い頃の三が日は商店などがすべてお休みの静かな日だった。そのときの感覚を思い出すことができるかもしれないと、1999年から何度もニュピに通った。幸運にも僕はウブドのプリアタン村のプリカレラン王家にホームステイさせてもらった。そこでニュピを過ごす。はじめのうちはニュピの意味もわからず、とにかくその雰囲気に浸りたいから行っていたに過ぎないが、次第にニュピの意味が見えてきた。そのときのことはこちらに少し書いた。

 

これからも度々書くだろうし、すでに本一冊以上の文章量になっているのでいつか出版するつもりだ。ニュピについての詳細はそれらを読んでいただくことにして、そこで知った様々なことがいま失われつつある。

 

ニュピの日、バリ人はみんな断食したというのだが、いまではそれを厳格に守っている人はあまりいない。ニュピの翌日はゲンバッグウニという日で、かつて商店などほとんど営業していなかったのだが、いまでは24時間営業の店舗が多数営業している。それらに対してバリ島の僧侶たちはたしなめるが、なかなか聞き入れてもらえなくなってきているようだ。何しろ多くの人にとって便利で儲かるのが一番だから。近年では近隣の島からバリ島へ、観光客目当てで働きに来る人が多くなった。そのような人たちはバリ島の僧侶に耳など貸さない。バリ島民もそのような人たちに少しずつ影響されてしまう。神に礼拝もせず、祭礼のしきたりを無視している人たちが幸せそうにそばで生きているのだから。

 

似たことがインドにも起きているのだろうと思う。

 

インドではIT産業の興隆などによって裕福な人が増えた。裕福な人が増えたことで多くの人の価値観は宗教的なことからもっと別なところへと移っていくだろう。宗教的な価値観を維持したい人にとってはあまりいい時代とは言えない。しかしいっぽうで別の見方をすると、そのような人たちにとっていまは大きなチャンスの時代でもある。なぜなら、そのような人たちは昔ある地域に縛られていた。物理的に移動する手段がなかったから、ある地域に生き、その価値観を根付かせ、文化として花開かせる必要があった。ところがこのグローバルな時代になると地域に縛られる必要は薄くなる。その教えを守って維持してくれる人を探して世界中を旅したり、メディアを通じて教えを伝えることができるのだから。

 

ヒマラヤの聖者たちはインドや世界の変化を察知した。なにしろインドから遠く離れた日本から、ひとりの女性が教えを乞いにヒマラヤの奥地にまで入って来たのだ。しかも、直接の教えを施さなくてもあるレベルに達していた。ヒマラヤ近郊でなくても、ヒマラヤの教えに興味を持つ人たちが現れ、高いレベルでその教えを受け入れていることを知った。その結果として相川圭子はヨグマタとなった。

 

ヨグマタジとパイロットババジはヒマラヤの教えをきちんと存続させるため、ヒマラヤに籠もっているより世界に出て行って、教えを伝えるべき相手を探すことを選択した。これはヒマラヤから遠く離れた人にとってはいいことだ。以前では得ることのできなかった崇高な教えに直接接する機会が生まれたのだから。

 

かつてチベット仏教はラマ教などと呼ばれ、かなり特殊な仏教の亜種と考えられていたことがある。しかし、ダライ・ラマ法王が中国を追われ、インドに亡命すると、その教えが徐々にメディアを通して世界に流通するようになり、結果としてチベット仏教の本当の意味をチベットやインドから遠く離れた多くの人たちが知るようになる。ヒマラヤの教えもインドの奥地からヨグマダジやパイロットババジのおかげで日本やアメリカなどに伝わり、その本当の意味に目覚める人が現れるのだろう。

 

ヒマラヤの教えについては、まだあまり知見が深くないので推測の域を出ないのだが、チベット仏教に近いものを感じる。儀式の形態は明らかに違うが、考え方の根本に多くの存在を包み込む共通した概念があるように感じる。言葉が違ったり、儀式が違ったり、人間の尺度から見て違うことがいくつかあると、僕たちはそれらを違う物と判断せざるを得ないが、もっと大きな存在から見れば共通した何かがそこにはあるように感じる。

 

二度目のインタビューのとき、パイロットババジはこんなことを言った。

 

「ヒマラヤの教えを正しく受け取れる可能性が高いのは日本人だと思う。欧米人はあらゆる価値をお金に換算してしまう。日本人は尊いものがお金に換算できないことを知っているし、そのことを行動に示してくれる。特に今回の震災で日本人は世界に、我欲では行動しないという規範を示してくれた」

 

いまはきっと時代の転換点なのだろう。深い叡智の伝承も、かつての方法とは変えなければならないのかもしれない。

 

ヨグマタジはヒマラヤに行き、比較的短い時間で悟りに達した。その理由としてヨグマタジは、悟りに達するために積み重ねなければならない多くの体験と学びを若い頃からのヨガの修行と「相川圭子総合ヨガ健康協会」を運営することですでに積んでいたのだろう。僕たちはいま、メディアでつながり、世界中の尊い教えを享受できるようになった。最後の最高点に達するためにはメディアでは伝えられない部分を習得・体験する必要があるだろう。しかし言い方を変えれば、メディアのおかげで遙か遠くの聖者に会わずとも、ある程度まではそこに近づくことができるということではないか。そのことをヨグマタジは身をもって示してくれたのだと思う。

 

『ヒマラヤの叡智が未来を拓く』に参加して その1 静寂から生まれ静寂へと消える はこちら。

くらやみ祭

府中、大國魂神社の「くらやみ祭」を見に行きました。

5/5の午後6時頃に府中駅に着いたのですが、神社の前は人でいっぱいで、なかに入れません。遠くから「ズーン、ズーン」と異様な低い音が聞こえます。

旧甲州街道沿いの大鳥居の前で御輿などが出てくるのを待ちました。しばらくすると大きな太鼓が出てきました。低い音の正体はこの太鼓でした。この太鼓が何基も出てきました。まだ午後六時頃は明るかったのですが、恐らくこれほど照明がなかった昔には、まっくら闇の中をこの太鼓が遠くからやってくると、それだけで人びとは何か畏れのような感情を持ったことでしょう。太鼓の上に乗っている人が、太鼓の叩く面を提灯で一度照らし、提灯を引き上げるとバチを持った男が太鼓を叩くのです。それを何度も繰り返していきます。

祭にとって畏れという感情は大切なものだったと思います。かつては神は畏れるべき存在でした。だからこそそのお告げに従おうとし、人はまとめられていくのでした。多くの人びとに神の力が憑依することで、普通の人ではできないことをしてしまう、それを見るのが祭でした。見たことのない大きな太鼓を神の力で作られ、それを動かす人びとも神の力で集められ、一人や二人の力ではびくともしない大きな太鼓を何十、何百の人が集まることで淀みなく動かしてしまう。それが神の力と思われたのでしょう。つまり、「畏れる」という感情がとても大切なものだったのです。

そのことに僕が気がついたのはバリ島でした。1999年のニュピという祭に僕はウブドにいました。当時のバリ島はまだ照明がいまほどはついていませんでした。夜になると街路灯が街の中心地ではポツリポツリと点きましたが、100Wもない、恐らく30W程度の暗い電球でした。それがほんのいくつかある程度で、街の中心から離れるとほとんど真っ暗闇でした。そんなところを夜に歩くとなると、自分の脚すらはっきり見えないほどの暗黒です。そんななかでニュピの前夜祭オゴオゴがおこなわれていました。

オゴオゴは悪鬼を象った大きな像(高さ3mほどから、大きいものでも8m程度)を街中で引き回し、海に持っていって、燃やしてしまうと言うものです。最近ではもったいないせいか燃やすまではせず、使い終わったオゴオゴを街で飾ってあったりします。そのオゴオゴを真っ暗闇の中、引き回したのです。何十人もの男たちが暗闇の中を重いオゴオゴを引いて駆け回るのですから、そのときの雰囲気はとても恐ろしいものでした。何十人もの力強く踏ん張った足音が、真っ暗闇の中をこちらにやってくるのです。巻き込まれてはひとたまりもありませんから避けようとするのですが、真っ暗闇なのでどう避けたらいいのかもわかりません。そのうちゴワーッとやってきた人の波とオゴオゴの雰囲気と、人びとの動きにもみくちゃにされて、オゴオゴは去っていくのです。まるで本当に神のような偉大な力が吹き荒れてそこを過ぎていったような感じがしたものでした。

ところがそれから9年が経ち、同じウブドでオゴオゴを見ました。そのときには街は照明であふれていました。オゴオゴは完全にショーアップされたものとなりました。まずオゴオゴが登場するとスポットライトが当てられます。そしてDJがそのオゴオゴの説明をするのです。どこの地域の人たちが、どんなコンセプトでそのデザインをしたかが語られます。それはそれで楽しいのですが、かつての神を見るような恐ろしい感じはありません。はっきりすべてが見えるので、楽しくてウキウキして、笑顔になれるイベントでした。しかしそれは神を畏怖する神事とは思えません。

このくらやみ祭も、もし実際に真っ暗闇の中でやったら、もっと神事としての風格を備えるようになるだろうと思いました。

遠くから腹をえぐるような地響きとも思える太鼓の音がやってきて、目の前を通り過ぎていくのです。ゆっくりと提灯が上げ下げされ、そこに太いバチが振り下ろされる。その様を見ただけで気の弱い人は「神様お守り下さい」と思ったでしょう。だから、できるのであれば、このお祭りのときは府中一帯停電させて、祭を中心にすべてが運営されるくらいのことをしてもらえたらなと思います。それが無理でもせめて照明は落として欲しい。安全のためなのか女性のアナウンスが始終「それは危険だからやめてください」と叫んでいましたが、お祭りの興を削ぐものでしかありません。お祭りというものはもともと安全なものではないのです。それを安全に運営しようとすることにこそ、間違いがあるような気がします。

今年おこなわれた諏訪の御柱祭も、岸和田のだんじり祭も、命がけの部分があるからこそ盛り上がるのです。命を粗末にしろと言うつもりはありませんが、命の価値を知るべき祭では、過剰な安全対策はいらないのではないかと思うのです。祭に参加するひとり一人が安全への対策を十分に考え、覚悟して参加する、その姿勢にこそ尊い何かが生まれてくる気がします。

お祭りは太鼓が通ると次に御輿がやってきました。御輿はいくつもの御輿が競うように往来を行き来します。御輿と御輿がぶつかって、一触即発の雰囲気にもなりました。これでこそ、日本の祭です。

こちらのページを見るとわかるように、この祭には大変な準備がなされています。これらをずっとおこない続けている神社関係の皆様には感動せざるを得ません。

大國魂神社並びにその関連団体、府中の街の人びとはきっとこれを実現させるために、一般の人には見えないさまざまな努力を重ねていることと思います。これからも日本人が素晴らしい伝統を忘れることのないよう、この祭を存続していくことを願い、私などが言うべき事ではないとは思いますが、御礼申し上げたいと思います。