思考する豚

農家では時々、昨日まで可愛がって飼っていた鶏や豚を食べてしまうことがあるという。子供がはじめてそのことを知ると驚くそうだが、親はそうやって子供が大人になっていくのを見守るそうだ。飼っていた動物を食べることが大人になるレッスンのひとつだとしたら、僕はまだそのレッスンを受けてない。生き物をその場で絞めて食べたのはせいぜい伊勢海老や魚の活き作り程度だ。

目の前で鶏や豚が絞められたら、その肉を平気な顔で食べられるだろうか。少々心配だ。

かつてバリ島ティルタエンプルの僧侶の家を訪ねたことがある。僧侶が出てくるのを待っていたら、庭で豚が激しく鳴いていた。理由を聞くと、その豚はその晩の祭で供えられるのだという。あの声を聞きながら、もしその豚を食べろと言われたら、きっと食べてしまっただろうけど、多少の抵抗は感じたと思う。

ある動物について詳しく知れば知るほど、その動物のことを食べにくくなるが、区別できた大人になればぺろりと食べるものだろう。しかし、都会でずっと暮らしてきた人の多くは、このような大人になる機会をなかなか持てないのではないだろうか。少なくとも僕は持てなかった。

僕は豚についてあまり詳しく知らなかった。別に興味がないから知らないだけだと思っていた。しかし、ライアル・ワトソンの遺作『思考する豚』を読みながら多少の抵抗を感じていた。豚について興味がないというより、もう少し積極的に「知りたくなかった」のだ。その理由を探っていくと、豚肉を食べることと関係があった。

よく野菜と炒めてぺろりと食べる。トンカツも好きだし豚角煮もいい。その豚肉を供給している豚が、とても愛らしい動物だと知ったら、いままで同様、豚を美味しく食べられるだろうか。

著者のライアル・ワトソンによれば、豚がもっとも繊細なのは鼻なのだそうだ。あの鼻に表情があり、感覚器がある。さらに豚は鳴き声で繊細なコミュニケーションをしているという。豚を知らない人は「ぶーぶー」としか認識しないが、飼い慣れてくると鳴き声で何を欲しているのかがわかるようになるという。さらには豚は文化をもっているとまで書いている。

そんなことをいくら知っても、罪深き大人は豚を食べる。少しふくれた罪悪感は調味料となる。それが人間だ。この本を読んで豚に興味が湧いたけど、それでも僕は豚を食べ続けるだろう。

本の帯にこう書かれている。

ヒトが蔑んできた豚は、ヒト以上に繊細で、知的で、上品な生き物であるかもしれない。彼らはそれゆえに、ヒトの蛮行と非寛容に対して寛容でありつづけたにすぎない。

かつてイルカについて「一緒に泳いだが料理されれば食べるかもしれない」と書いたら、何人かの淑女からコメントをいただいた。

「イルカが好きなのに食べるなんてひどいことはできない」というお嬢さんは、これを読みながら豚を食べると少しは大人になれるかもしれない。僕と同様、少しの罪悪感を感じながら。

トップのかわいい豚の写真は特定非営利活動法人Tuvalu Overview の代表理事遠藤秀一様から提供していただきました。ここに御礼申し上げます。

ライアル・ワトソンの遺作『エレファントム』

1994年にケニアに行った。『ひとりぼっちのケティ』という少女マンガの原作を書く取材のためだった。そのときのことはこちらに書いた。

その取材の際に現地のコーディネーターがライアル・ワトソンについて「あいつはインチキ野郎だ」と言っていた。「なぜ?」と聞いたら、「あいつは撮影のために現実を変えることをなんとも思ってない」と言うのだ。何か自然現象の映像を撮影するとき、あたかも自然に起きたことかのように位置を変えたりしたのだそうだ。その頃、僕はライアル・ワトソンの本が好きだったので、「そんなことはないだろう」という気持ちと、「それが真実だったら嫌だな」という気持ちのあいだを揺れて吐き気がした。

それから何年かして河合雅雄先生に会う機会を得た。そのときに何年間か疑問だったことを質問した。

「ライアル・ワトソンが書いている『百匹目のサル』の話しは本当ですか?」

ライアル・ワトソンの著書『生命潮流』に『百匹目のサル』についての有名な話しが書かれている。その元ネタが河合雅雄先生の研究だったのだ。ところが河合先生の本には確かにライアル・ワトソンが引用しただろう話しが書かれているのだが、『百匹目のサル効果』については何も書かれていなかった。

このときのやりとりの詳細はここにある。

つまり、『百匹目のサル』の話しはライアル・ワトソンの作り話だったのだ。

この話しがはっきりした頃からライアル・ワトソンは新作を発表しなくなった。南アフリカに帰ったという噂もあったし、「嘘ばかり書くから干された」という人もいた。そのあたりの子細を僕は知らない。

先日、本屋に入ったら一冊の本が目に飛び込んできた。それはライアル・ワトソンの遺作『エレファントム』だった。さっそく買って読んだ。とても面白かった。象もクジラも興味のあることだったので、かつて調べた話しがいくつも出てきた。読みながら、どこが嘘でどこが事実か区別するようにして読んでいた。「嘘」と書くとちょっときついかもしれない。「創作」とした方が故人のためだろう。見事な創作がそこにはあった。その見事な創作(と思える部分)に僕は感動した。

ライアル・ワトソンは動物行動学の博士として本を書くのではなく、動物行動学博士の肩書きを持つ作家として本を発表すべきだったと思う。『エレファントム』に出てくる創作と思える部分も、あまりにも見事なので創作かどうかはっきりと断定できない。科学的に考えるなら「あり得ない」話しだ。しかし、現実としてそのようなことがあっても不思議ではないかもしれないと思えるように、ライアル・ワトソンは本のはじめから伏線を張り、見事な物語に作り上げている。

たとえそれが僕の考えているように創作だったとしても、僕はライアル・ワトソンの本が好きだ。生命科学を背景にして見事な物語を書き上げている。しかし、それを純粋な科学だと信じさせようとしていたなら、そこには問題があるだろう。

『エレファントム』の最後に出てくる逸話も創作だろうと思う。だけど、その創作を僕はとても素敵なものだと思っている。それがどんなものかは本を最初から読み味わわないとわからないだろうからここには書かない。とにかく僕には大変響いた。

『エレファントム』の中頃にこういう話しをライアル・ワトソンは書いている。

優れた追跡者と同じように、優れた科学者にも直観が不可欠だ。リーベンベルクはそれを「必要とされるはずの情報よりも少ない情報に基づいて、結論に到達する」と言い表している。そうした想像力による飛躍は科学というよりも呪術的に思えるが、実際に新事実を発見する過程ではこれがよく用いられている。本当に新しいものは、既成の知識だけでは見えてこないからだ。

既成の知識というものは、権威を帯びて教条的になることがある。絶対に正しいとされる事実や枠組みを作りだし、それらを議論の対象から除外する。多くの教科書は新たなアプローチの可能性を認めない。信じて飛躍することこそが本当の進歩につながるということを忘れている。

ライアル・ワトソン著『エレファントム』 木楽舎刊

ライアル・ワトソンも見たり聞いたりした事実から想像力による飛躍を何度もした。その飛躍に多くの科学者は反発を感じたのだろう。その飛躍をまずは「創作」という枠で提出するべきだったと思う。というか、そうして欲しかった。その飛躍が僕は好きだから。