西郷南洲遺訓

毎朝書いている『日刊 気持ちいいもの』を、昨日は休み、今日は昼過ぎに出した。こう書いた。

チャンス
特定秘密保護法が施行され、
集団的自衛権の行使容認がなされた。
武器の輸出も可能になってしまった。
もうすぐ戦争になってしまう。
何年後かは知らないが、
このまま物事が進んでいくと
いつか戦争に巻き込まれてしまう。
そのことを自覚して
いろんなことを学ばなければならない。
目を背けていると逃げられなくなる。
多くの人がそのことに気づけば、
そのときはじめて
自立した日本になれるかもしれない。
国家vs国家で物事を考えていると
ミスリードされる。
この好機に目覚める人が
増えることを念ずる。
垂れ流される情報を鵜呑みにするのではなく、
正しい情報を探し求めよ。

『日刊 気持ちいいもの』だから、気持ちいいものを書かなければならないが、あまり気持ちいい話とは思えないが、書くべきだなと思って書いた。
そして最後の一行を書いて、続いてどう正しい情報を得るべきかを書こうとしたが、やめた。
僕自身、正しい情報を得られているのかどうかはっきりしないから。
最近、ネット上では、いろんなことが書かれている。それらの内容は、まったくでたらめのものもあるし、ある側面では正しいものもある。どんなに正しく思える文章でも、すべてが正しいかどうかは僕自身判断できないものがある。そしてそれを起点にして物事を考えたりもする。
僕はあれを知っている、これを知っていると、正しいと思われることをここに書くが、どうあがいてもそれは真理の一面でしかない。誰でも自由に表現ができるのはとてもいいことだが、多くの場合、それは真理の全体を表現することはできないし、僕の文章もそのようなものでしかない。

たとえば、安倍総理がめちゃくちゃなことをしているとここに書いたとする。あんなことした、こんなことした、だからどうにかしろと。しかし、あまりそれには意味がない。書きたい欲望はあるのだが、我慢している。それも真理の一面でしかないと僕は思うから。

ここからしばらく空想を書く。なんの根拠もないことだ。ただ、こういう見方もできるということ。

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繰り返すこと

毎朝『日刊 気持ちいいもの』を書いている。するといろいろと気づくことがある。そのひとつをここに書こう。

夢に何か気持ちいいことが登場すると、それを『日刊 気持ちいいもの』に書くことができるが、そうではない場合、たいてい最初に思いつくのは前日に書いたことだ。「まあそうだろう」とそのことを特に気に留めていなかったが、これって人間の、または脳を持つ生命の特徴なのかもしれないなと思ったとき、思い出したことがあった。

それは子供が言語を獲得していくとき、何度も同じようなことを語る。しかも、頻度が高いのは、同じことの中にある些細な違いについて語ることだと言語学の本で読んだ。

だとすると、僕のような大人でも、実は脳のある領域では絶えず子供と同じことをしているのではないかと考えた。しかし一方で同じことを繰り返し反芻することは「意味がない」と教え込まれた結果、教育された大人は、それを無視するようになった。

なぜ同じようなことを繰り返し考えてはいけないのだろう?

人間には学ぶことがたくさんある。それらを学ぶためには、理解したことはすぐに大きく発展させるか、もっと別なことを学ぶかするように教え込まれたからではないか?

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