先日来使っているtwitterに田口ランディさんが書き込んだ。
角川学芸出版ウェブマガジンでの連載開始http://bit.ly/D3QED つなぶちさん、ぜひ読んで!「あーっあの時か?」と思う箇所がいくつもあるはず。
読んでみると確かにいくつも思い出の話しが載っている。どの話しも、自分が体験したことでなければにわかには信じられないような話しだ。
僕が不思議な体験をし始めたのはいつからだろうと思い出してみる。はっきりと言えるのは中学一年の時だった。それから何度か?と思う体験をしている。そういう話しは自分でも理解できないのでしばらくすると忘れる。だけど、何かのきっかけで思い出してしまう。そしてどうしても短絡的な答えを作りたくなる。理解できないでいることが苦しいから。わかった気になるのが楽なのだ。不思議な体験をしたらそれが霊の仕業だというのも簡単な答えだし、科学的に説明するとこうなるというのも簡単な答えだ。そして実際のところは、説明しきれないような深遠な何かがあるのではないかと思う。しかし、この「深遠な何か」と断定するのも簡単な答えの一つだ。
だいたい僕たちはなぜ生きているのかすら知らない。どんなに医学が発達しても、なぜ生命が生まれるのか、なぜ生命というものが形作られたのか、答えを知らない。「そういうもの」という前提に立って考えるよりほかに仕方ない。そうであるなら、目の前に現れる不思議な出来事も、ただ「そういうもの」と受け入れるしか仕方ないはず。いまはまだ多くの人が科学的でないことは「そういうもの」とは考えない。理屈に合わないと現実を見ないのだ。本当は自然や宇宙が先にあって、それに合わせて理屈を作っているのに、精巧な理屈ができると、それに合わない現実は排除されていく。このあたりのことを森達也さんは「スプーン」という本でうまく書いていた。超能力者と付き合ううちに生まれてくる葛藤。その葛藤に森さんはじっと付き合っている。
僕がバリ島に10年ほど通ったのも、何か説明できないものがあったからだ。その説明できないものを理屈で割り切ると、いかにもわかった気になれる。しかし、それはあくまでその気になれるだけだ。にも関わらず僕は、それを理屈で説明したいと思う。ようは馬鹿だと言うことだ。しかし、人間は馬鹿でないとならないときがあるんだなと思うようになった。馬鹿が世界を動かすんだと思う。理屈だけではがんじがらめになって動けなくなる。理屈で編まれた体系を突き破る行動が大切なのだと思う。
ウェブマガジンに登場する「青龍」の話しも僕は同席していた。そしてそのあと確かにランディさんはものすごい勢いでデビューする。本当にびっくりした。
ランディさんのスタンスは、どんなにわからないことでも、不条理なことでも、観察することだ。「コンセント」ではお兄さんの死をじっと観察した。そして観察している本人の心も観察していた。最近作「パピヨン」でもお父様とキューブラー・ロスの死をじっと観察した。わからないことについての観察は能力がいる。ランディさんはそういう、わからないことを観察する能力に長けている。じたばたするし、泣き言も言うが、その部分が読者を救ってくれる。もしその部分がなかったら、読者は書かれている内容を直視できないだろう。ランディさんのわからないことを観察し、それを読者に伝える能力のすぐれた点は、実はそのじたばたや泣き言にあると僕は思う。
ランディさんはこれから「不可知への冒険」でどんな物語を紡ぐのだろう。理屈で編まれた体系を突き破るような作品を期待している。