ニュピの変性意識

このエントリーは以下の二つの話の続きです。内容をきちんと把握したい方は以下のエントリーを読んでからお読み下さい。

「柳田國男全集13」

「変性意識と祭」

僕がバリ島のニュピで体験した変性意識状態はとても興味深いものだった。こう文章に書くとき、それはもうすでに言語化しているので理屈となってしまっている。実際にはどう思い返してみても、うまく言葉にならない体験だった。それを無理にでも言語化してみよう。

オゴオゴの終わった深夜からニュピは始まる。僕たちはラーマさんの言ったとおり断食と断眠をした。ニュピの日は新月なので夜は本当に真っ暗だ。最近では街中にライトが点けられて、ぼうっと明るいのだが、かつては目を開いていてもつぶっていても変わらないほど真っ暗だった。そのなかで瞑想する。バリはとても暖かいので、たいていの場合皮膚と空気の温度差を感じない。さらに音はない。だから、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚がすべて失われる。そうなると些細な変化にとても敏感になる。たとえば隣の人が何をやっているのかはまったく見えないが、かすかな音で足のどこを掻いているのかがわかったりする。もしかしたらわかった気になっているだけかもしれないが、そのときの感覚ではわかったと感じていた。それから誰かがトイレに行きたいと立つ際には、そばを通ると温度の変化を感じる。そのくらい敏感になる。その敏感さでさらに黙っているので、さらに感覚が鋭くなり、変性意識状態に入っていく。

そこに入ると夢と妄想の区別ができない。かつて会社員だった頃、寝不足が続き、それでも夜に車を運転することがあった。そのとき、半ば居眠りをしながら、夢と現実を一緒に見たことがあった。車を運転している道路の状況と、居眠りして見ている夢の状況が目の前で一緒に繰り広げられるのだ。それに似ていた。ニュピの闇の中にいると、想像していることと夢が等価になる。どっちでも変わらなくなってしまう。その状態がしばらく続くと、完全に夢の世界というか、あっちの世界だ。ふと目が覚めると、あっちの世界は忘れられ、「なんか見ていたような気がするんだけど」という感じになる。特に朝を迎え、昼に瞑想しているときから翌日の朝になるまで、こういう体験をたくさんする。昼に瞑想している人が時々コクッと眠りにはいる。そうすると軽くゆすって起こしてあげて「いま何か夢を見た?」と聞くと、たいてい夢を見たのは覚えているが、それがどんな夢だったかはよく思い出せない。

ここからあとは、僕の推測である。いったいこの夢を見ているような変性意識状態で何が起こっているのか。

固く結ばれた記憶と感覚のすり替えが起こっているのだと思う。

僕たちはある記憶と、それにともなった感情をよく覚えていて、その感情と共にその記憶に対しての判断をおこなう。たとえば、ヘビを見たときにひどく脅かされ恐怖が感覚を支配すれば、ヘビを二度と見たくないと思うようになる。それはその人の恐怖の感覚が、ヘビと直接結びつけられたからだ。変性意識状態はその関係を一度ゆるくしてしまう。変性意識状態になるとあらゆる記憶が浮上してきて、どの記憶とどの感覚が一緒だったかが曖昧になるのではないかと思う。この曖昧な状態の時に外部から強制的にある記憶や体験への感覚を与えられると、人間はそれを真実と思いこんでしまう。それを洗脳という。だから、変性意識状態というのは極めて繊細な状態にあると言える。このときに変な感覚を植え付けられたりしたら、まったくもってもったいない。この状態でどれだけ平和な気分でいられるかが大切なことだと言える。そして、変性意識状態で平和な感覚を味わい、過去の出来事を追体験すると、たとえば例の話で言えば、ヘビが怖くなくなったりする。そういうものだと感じた。

だから僕もニュピに行くたびに少しずつ変化したのだと思う。社会に適応するように埋め込まれていたいろいろなことが、少しずつ解けていった。そうすることで、何に一生懸命になるべきかが、かつての教えられてしていたこととは少しずつ変わってきた。しかし、それは日本人の僕だからそうなったのだろうと思う。もしバリの社会に組み込まれていたバリ人が変性意識状態を体験し、そのあとでバリの社会に戻れば、バリの社会にいることが正当化される感覚が生まれるのだと思う。だから日本の祭でも、変性意識状態を味わいながら日本の文化を肯定するような状況に置かれることで、日本の文化をさらに深く受け入れるようになるのだと思う。

戦後、神道を廃絶してきたのはひとつには日本でのこの状況を壊すためだったのではないかと思う。一度日本の文化をリセットするためだ。日本の文化が必ずしも悪かったと言うつもりはない。しかし、もう一度日本文化に戻るためにそれが必要だったのではないかと思うのだ。

日本人は江戸時代の頃から、外人が驚くほど文明化されてきていた。それがなぜかと言えば、江戸時代の平和がもちろんひとつの理由だが、もうひとつ大きいのは神道と仏教だったと思う。このふたつの教えはどちらも多神教だ。仏教はブッダが始祖だから一神教的に思う人もいるかもしれないが、その教えの中ではいろんな菩薩や如来が登場し、その立場を鮮明にしていく。多神教的であるが故に日本人は他人への感情移入が自然と教えられていた。それが教えられてきたためにとてもスムーズに日本は文明化されたのだと思う。そして、その結果、協力と敵対がほどよく組み合わせられ、新しい文化もすぐに吸収してしまう素地ができた。

しかし、そんな日本も一度はその多神教的文化から離れる必要があったのだと思う。そのことで、さらなる発展が可能になるからだ。その理由はまた次回。そして、なぜ多神教だと他人への感情移入が簡単になるかも書こう。

このエントリーの続き「一神教と多神教」はこちら。

扇の奥義

今年は月次祭、祇園祭、ねぶた祭と、大きなお祭りを三つも見ることができた。どのお祭りでもどこかで必ず扇子をもらった。お祭りと扇子は付きものなのだろうか? と思っていたら、書店で吉野裕子(よしのひろこ)全集を見つけ、第一巻の最初に「扇」という民俗学論文が載っていたので買って読んだ。

普通であれば俗説ではないかと思われることを丁寧に調べて書いてある。全集を全部読んでしまおうかという気になってきた。それほど面白い。著者は50歳になってから扇について調べ始め、本を書き、六十歳を過ぎて東京教育(筑波)大学の博士号を取得すると書かれていた。

現在の神道は性的なことが隠されて、もともとの意味がわからなくなっているものが多いが、その本によれば、昔は陰と陽とその交わるところに神が降りてくると考えられていた。バリ島で教えてもらった価値観とそっくりなので驚いた。

沖縄の蒲葵(びろう)から話しが始まり、扇は日本が起源にもかかわらず、どのように作られたか、どのように使うかのしきたりなど、知っている人がほとんどいないということで、吉野女史は扇に関連する祭を調べて回る。すると沖縄を軸にして次第に扇の意味、神道のかつての形が現れてくる。

ここでは丁寧な説明はできないので、興味のある人は原文を読んで欲しいのだが、いくつもある扇と神との関係の話のなかで、なるほどと思ったのがミテグラの話しだった。まとめることに問題を感じるが、端的に書くとこうだ。

祝詞などに登場するミテグラという言葉を吉野女史は二種類の意味があるといっている。ひとつは「貴重な神への進献物」、もうひとつが「両掌に捧げられた神聖な神降臨の道が開かれるところ」だそうだ。桃の節句のお雛様が扇を両手で持っているが、あの形がミテグラで、そこが神への道の入口となると言うことだ。だとすればお祭りで扇を持つことの意味が明確になる。扇を持っていれば誰のところにも神はやってくる。両手の平で作ったくぼみが陰を象徴し、そのあいだにはさんだ扇が陽を象徴する。そこは胎児が生まれる場所であり、死んだ魂が帰るところである。

 

この本の中で三角形が象徴するのは母胎であることが示される。死んだ人がかつて頭に巻かれた三角の白い布は、死んで母胎に回帰することを示していたそうだ。

ところで、昨日たまたまテレビをつけたら、トンカラリンのことが放送されていた。トンカラリンは熊本にある遺跡。

詳しいことはここに書かれている。

http://inoues.net/ruins/tonkararin.html

ここを通ると幼い頃に見た夢を思い出したと茂木健一郎氏がBlogに書いている。その夢は参道を通ってきた記憶のようだとも書いている。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/10/post_819c.html

この遺跡のなかを通っていくと、途中、岩に三角がたくさん彫られているところがあるそうだ。その三角と吉野裕子女史が書いた三角は同じ物なのではないかと感じた。もしそうだとすると、やはりトンカラリンは胎内回帰の体験をさせるための装置なのでは?と、勝手に推測した。もしそうだとしたら興味がある。「胎内記憶」を出版して以来、その話しにはどうしても興味を持ってしまう。そのことと、バリ島、そして神道がつながるってのがいとおかし。

ニュピが疑似臨死体験をさせてくれることについていつか本にするつもりだが、それに神道も関わりがあるとすると、もっと面白いことになりそうだ。

バリと日本の文化の繋がりについて表すことになるのか、隔たった場所でも人間という動物が、どの地域にいても共通して持つ感覚として胎内記憶を見るのか、おそらく両方の要素が複雑に絡むのだろうが、明確にすることができたらいいのにと思う。