無縁社会

三、四日前に近所の本屋で週刊ダイヤモンドを買った。第一特集が「無縁社会 おひとりさまの行く末」だ。これを読んでいて思いだしたことがある。それは親父が死ぬときの看護婦さんの言葉だ。親父が死んだのは1996年。もう14年も前のことだ。そのとき、親父が危篤になり病院に呼ばれて行ったが小康を得た。そこで兄がその日一晩は親父についていると言ってくれたので、僕と母はうちに帰った。確か家に着いたのはすでに深夜だったと思う。メールの返事などして午前三時まで起きていた。すると病院から電話が来て「血圧が急激に落ちているので来てください」と言われ、母さんを起こして車で病院に向かった。

病院に着くと看護婦さんがこんなことを言った。

「いい家族ですね。全員が臨終に立ち合うなんて」

「は?」と思った。「それが普通でしょう」と。

父はまた小康を得たが、その日の朝日が昇る頃に帰らぬ人となった。

あとで思ったのだが、もしあの頃僕がサラリーマンだったら、確かに父の死に目に会えなかったかもしれない。父が死ぬより、自分の会社の仕事を優先させたかもしれない。そう思った。

そんなことを記事を読んで思いだした。

無縁社会になるのはいろんな要素が絡み合っていると思う。しかし、あまり誰も言わないので、ここであえて書くが、そのひとつの理由としてマーケティング的発想が無縁社会を作っているような気がする。マーケティング的発想とは何か。

「人は面倒なことはしない。だから何かを売るためには消費者の煩わしさを排除する」

マーケティング的発想にあまりにも慣れてしまった人は社会生活の中で「煩わしさは避けて当然」と考える。だから「煩わしいことはしない」し、「他人に煩わしい思いもさせない」と思うのではないだろうか。

人間関係を作るというのは面倒なことだ。もちつもたれつと言うが、ビジネスの場面での恩の売り買いまではできても、売り買いが成立するかどうかわからないことについて、面倒をかけたり、面倒を見たりすることはしなくなっているのではないだろうか。僕はそうだし、ほかの人たちもかなりそうなっている気がする。唯一の例外は女房とほんの一握りの友人との関係だ。ここだけは大変な面倒の掛け合いをしている。ところが同じような面倒の掛け合いは、もう兄ともしないし、まして甥や姪にはまったくかけない。それはいいおじさんであることのためであるが、一方で本当に困ったときどうにかしてもらえるような人間関係は作っていないと言うことだ。

いま社会はどんどん便利になっていると思う。その一方で、かつて自然とできていた人間関係を作るための面倒なやりとりもなくしてしまったのではないだろうか。便利になるのが当たり前に思う僕を含む一群の人たちは、便利になるが故に無縁社会の種を知らず知らずに育てているのではないだろうか。

他人に上手に甘えて、迷惑をかけ、迷惑をかけられるような関係を築くのが大切かもしれない。それは自分が駄目な人間であることを受け入れることに近いかも。そのあとで、誰かの駄目さも笑って許してあげられるようになることかも。

ここでもうひとつ思い出したことがある。バリ島の男を買う女性だ。

バリ島のクタ海岸には日本人女性がお金で相手してもらえる男性がたくさんいる。そこで日本人女性が何をするかというと、そんな男たちにお金を払って、彼らを愛人として好きに使うのだ。そういうカップルはクタにいるとすぐにわかる。なぜなら女性がとても不機嫌だからだ。自分が好きに使える男がいたら嬉しくてたまらないのではないかと思うのが普通だろうけど、実際には違う。彼女らは心のどこかで後ろめたいので、常に何かにあたったり怒ったりしている。

便利に使える男は価値がない男と、心のどこかで思っているのだろう。そして、相手の煩わしさをどこかでキャッチして、それがまた自分の機嫌を悪くしているのではないかと思う。面倒をかけられるのは「お金を払っているから」という理由があるからなのだ。そして、そのことにいらついている。

人間は相手のことが好きだったら、お金なんか払わなくても多少のことは許してあげられるものだ。この多少のことの許容範囲が、無縁社会を作りつつある日本ではかなり狭くなってきているのだと思う。

以上、みんな僕の勝手な推測だ。もしかしたら違うかもしれない。でも、僕はそう感じている。